玖:お茶会―遼煌と博麗
後宮の北東にある旧乾東五所。
以前は皇太子以外の皇子が住む宮であったが、火災によって焼失した。現在は再建されて名前の通り五つあった部屋は二つとなり、東側が遼煌の宮となっている。西側は長らく誰も住んでいなかったが、いずれ第二公主である匡曄の自室となる予定である。
「李梓殿は放っておいてよろしいのですか?」
「ああ。いいのよ。そういう約束だから」
「約束?」と首をかしげる博麗を気に留めずに、遼煌は茶器に口をつけた。
現在、馬付馬候補を選定中の第一公主・朱 遼煌は数人の男性と文の交換や逢引をしている。
本人は全く乗り気ではないので、何度かの逢瀬を重ね、候補者を減らしては、自分の時間を取り戻しつつあった。
しかし、全員ふるいにかけるわけにもいかない。そのため、この騒動より前から知り合いの楊武と、数人を候補者として残していた。特段、楊武は優遇されており、今もこうして遼煌の宮へと招かれている。
「なんかねえ、匡曄が生まれる前にお父様に見せてもらった青銅器の金文をようやく読み始めたらしくて」
「は、はあ……」
「それの内容が、また当たりらしいの。”時間を置いた分、報告はしっかりと行いたいのですが、如何せん読む時間が足りず……“ってさ」
それは楊武の真似なのだろうか? 博麗は声を大きく震わせて話す遼煌の口調に疑問を抱いたが、あえて何も聞かないことにした。
「で、李君困ってるし、”じゃあうちで読む?“ って誘ってみたのよ」
「すると?」
「そしたら彼、子犬みたいに目輝かせちゃってさー」
ありありと想像ができる楊武の姿に、博麗も自然に笑いが出る。
「なぁんか彼、放っておけないのよね」
茶器を両手で持ち、机に肘をついた。
他の宮女が居れば、はしたないとたしなめるところだが、あいにく二人きりの為、博麗も目をつむった。
「それに私もいい休憩になるし」
茶を一口含むと、遼煌は衝立の向こうをちらりと見た。
衝立の向こうでは、用意された机で楊武が拓本を読んでいる。稀に頭を抱えたような唸り声が聞こえることもあるが、さほど気にするものでもない。
放っておいても死にはしないと遼煌は豪快に笑っていた。
「博麗~、次は誰と会うんだっけ?」
それよりも、楊武以外に会わねばならない男のほうがよっぽど気になる。
笑みを作り、相手を立てる堅苦しい会話を思い出し、遼煌はため息をついた。
「明日、秘書省副長官のご子息です」
「ああ、あいつね」
明日の予定を告げられ、遼煌が苦い薬草でも食べさせられたような渋い顔をした。
月に数回とは言え、話したくもない男と二人で会話をする苦痛には耐えられない。遼煌はかつての平穏な日々を恋しく思った。
博麗が空になった茶器に茶を注ぐ中、遼煌がふいに楊武との会話を思い出した。
「そういえば李君、秘書省のこと羨ましがってたわ」
「何故?」
「書物扱いつつ、政治はほぼ関与しないからですって」
彼らしいわねえ、と笑う遼煌に、博麗は茶器を手渡す。
「昔は竹簡の解読とかを秘書省の高官が任されていたこともあったそうよ。日がな一日竹簡と向き合うだけの生活がしたいって言ってたの」
博麗に礼を告げ、淹れたての茶に息をかけて冷ます。茶の香りを楽しむと少しだけ飲み、言葉を続けた。
「でもねぇ、それって今と変わらないじゃない? って言ったら確かにそうですね、って笑ってたわ」
高らかに笑う主に対し、博麗は顔を引きつった笑みを向けるしか出来なかった。
実際、楊武の太子中庶子と言う肩書は名前だけだ。唯一、定期的に行っている執務と言えば、毎朝謁見に出ているぐらいだろう。
「李殿、仕事をしていない自覚はあったんですね」
「英慶宮の官人たちはそれでよしとしているんだから、李君の人望よね」
「小耳にはさんだ程度ですが、やはり孫師父の一件から立ち直られたのが大きいとか」
「なるほどねえ。だから同じような役割を任されている、と」
央晧の楊武への懐き具合を思い出し、遼煌は納得した。横目で衝立を見るも、今は静かだ。会話が止まると、紙と筆のこすれる音がかすかに聞こえる程度である。
「李君にはいろんな意味で感謝しなきゃねえ」
本人は気付いていないだろうけど。遼煌はそう呟くと、また茶器を口元に寄せた。
央晧の件だけでなく、持ちつ持たれつとは言え、こうしてわずかな時間であれ安息を得られることに、遼煌は少なからず楊武へ感謝をしていた。
「はーあ。李君が毎日来てくれたらずっとお茶会してられるのに」
遼煌は背もたれに倒れこむと共に本音をこぼす。
可能であるならば、自分のところにも毎日足を運んでほしい。息抜きの時間を増やしたい遼煌の切実な願望であった。
「もっと休憩したいわあ」
至極残念そうなため息を漏らす主に、博麗は苦笑をこぼすしかできなかった。
馬付馬…本来は馬へんに付の一文字で「ふ」と読みますが、環境依存文字のため、この通りに記載しております。




