漆:内緒の夜会
遼煌と談話をした夜、楊武は久しぶりに金文を読んでいた。
『穆天子伝』の執筆、『竹書紀年』の単独での書物化など、此処最近は新たな研究に取り掛かる余裕がなかった。
普段から宮中の年中行事は数えきれないほどあるが、今年はいつも以上に祭儀が多い。理由はもちろん、匡曄の誕生である。
祝いの行事だけでなく、彼女が健やかに育つための儀式や、加えて皇族の繁栄を願う祭祀と次々に増えた行事のおかげで、皇太子府も程よく振り回されていた。
昼間に遼煌と『穆天子伝』の話をし、いい加減かまけているわけにもいかないと思い、机の上に散らばったままの拓本に手を伸ばした。
「なんせ陛下から直に受け賜わった事案だからなあ。成果を残さないと」
一冊に束ねた拓本へ目を通す。今日は姫沛と顔勒による夜食付きだ。皿に並んだ片手で食べられる小さめの包子を一つつまんだ。
「あ、白菜だ」
中身は数種類あると言っていたが、野菜が中に入っているようだ。舌鼓を打ちつつも、金文から視線は外すことはない。
今回見つかった青銅器は二十七器で、鼎と呼ばれる三本足、もしくは四本足の青銅器が特に多く発見されている。
鼎は所持できる数が位によって決まっているため、権力の象徴として重視されている。鼎が一番多く発見されていると言う点は、何か手がかりになるかもしれない。楊武は拓本の横に置いた数や形を記録した紙に覚書を追加した。
「それにしても、二十七器全部に銘文が入っているなんて」
形からや発掘された場所から考えて、おそらく前寛代の青銅器であろう。前回、劉巴たちと拓本を取った青銅器は百三件の内、七十四しか銘文が存在していなかった。
しかし、今回は数が少ないとは言え、全てに銘文が施されている。その上、文字数も全体的に多い。楊武は読み応えがある金文だと心が弾ませた。
読み進めていくことしばらく。突如、自室の扉が開いた。楊武は驚きのあまり肩が跳ねる。
ぎぎぎと首が鳴りだしそうなほどぎこちない動きで振り返ると、央晧が眠たそうに目をこすっていた。
「た、太子……!?」
「……お前、まだ起きているのかあ?」
央晧は朝の準備もあって起床時間が早いが、まだ起きるには早い時間だ。目覚めきっていないのか、語尾がいつもより数段柔らかい。
「ええ。今更ですが陛下からお預かりした青銅器の銘文を読んでおります」
楊武が言うと一気に目が冴えたらしく、机の上の拓本に目を向けた。
「まだ読んでいなかったのか?」
「さ、最近部屋に居る時間が短くて……。気づいたら眠っている、なんてことが多かったんですよ」
眉を八の字にして笑う楊武に、「ああ」と納得した。もちろん央晧もこの数か月が多忙であったことは理解しているため、それ以上咎めはしなかった。
話をしつつも楊武の目は拓本から離れない。
央晧は稀に左手が包子に伸ばされる様子を見つめていた。見たこともない料理に興味を示した央晧が、楊武から包子を取り上げる。
「え、あ、太子!?」
「まだほんのり温かいな。……これは韮か?」
「そうじゃないですよ! 毒が入ってたらどうするんですか!」
皇太子に暗殺はつきものである。特に毒殺は嘉王朝だけでなく、それ以前の王朝から幾度となく使われてきた暗殺方法の一つである。
普段の央晧の食事には、専任の料理人と毒見が居る。全ての確認が終わり次第、央晧は食事を許されるのだが、その頃には冷え切っていることが多い。
「お前が隣で食べているのに毒があるわけないだろう」
当たり前に腕を組む央晧に、楊武は「だからそうじゃない!」と叫びたくなるのをこらえた。
「これは豆芽か」
焦る楊武を気にもせず、央晧はまた一つ包子を口に含んだ。
「手で食べられるのは便利だな」
包子を含む点心と分類される食事は、茶の流行と共に発展した。片手で食べられる料理として民間では一般的になりつつある料理だが、皇族となれば話は違う。
嘉王朝以前より、料理は煮炊きが主菜であった。料理の過渡期である今、包子が皇族の料理に並ぶことはまだ無い。央晧にとって点心は未知の食べ物であった。
「色んな味があるのだな!」
「……太子、そんなに食べて大丈夫ですか? 朝餉が食べられなくなりませんか?」
楊武が韮の入った包子を口にすると、央晧ももう一つ手に取った。
「誰かと並んで食事など初めてだからな。満腹で朝餉に手をつけられなさそうなら適当に理由をつける」
「……」
さらりと言われた皇族との溝に楊武は口をつぐんだ。
毒見が終わった料理を基本は一人で食す。本来、隣に座って食べるなど言語道断であるが、央晧の小さな願望を叶えるぐらいは楊武にもできた。
「みんなで食べるとおいしいですよね」
「……そうだな」
「今日、拙の包子をつまみ食いしたことは内密ですよ?」
「もちろん。他言無用で頼むぞ、共犯者殿」
挑発するような笑みを向けた央晧に、楊武はわざとらしく肩をすくめて笑う。そして手に持った包子を食した。
央晧と楊武が呑気に包子を食べているこの瞬間、楊武が手にしていた拓本こそ、後の研究に大きな爪痕を残す一枚となるのだが、それに気付くのは二人が包子を食べ切った後のことである。




