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拾:楊毅と王氏

 楊武と央晧が久しぶりに講義を行った日から数日後。


 楊毅は英慶宮に向かっていた。目的地には死んだと思っていた弟が居る。

 本来であれば諸手を挙げて喜びたいところだが、表情は苦々しいものであった。



 楊毅が武英殿を出た矢先、書局から出てきた王氏と遭遇した。


「おや、楊職方司殿ではありませんか。今日はおひとりで?」


 たくわえられた白髭の毛先を数回撫で、王氏は尋ねる。


 楊毅は目を細め、王氏を捉えると笑みを浮かべて答えた。


「これはこれは! 王礼部長官ではございませんか! 先日はお騒がせをいたしました!」


 はきはきと言葉を返す楊毅に、王氏はたじろいだ。

 王氏にとって、裏表のない楊毅のような人間は苦手な類のようだ。


「いえ。まさか李殿を抱えて書庫に来られるとは思いもしませんでしたが」

「偶然ですよ! まあ、なんか空気悪かったみたいなんで間に合ってよかったです!」


 大きな口を開けて笑いつつ、楊毅は自分より少し下に位置する王氏の顔の様子を伺う。

 俯いた王氏が、一瞬だけ顔を顰めていたように見えた。


「え、ええ。李殿もお咎めなしだったようで何より」


 しかし、楊毅を見上げた王氏は朗らかな笑みを浮かべていた。その様子に楊毅は眉間に力がこもったが、笑顔を取り繕う。



 楊武が先日、武器庫で閉じ込められた件は、瞬く間に宮城内に広まった。

 李梓が貶められているのは火を見るよりも明らかで、怪しいと言えば、やはり同じ皇太子の教育係である王氏であろう。

 官人だけでなく、宮女や宦官の間でもそのように囁かれていた。


 書局開局の際に発行された書物にて、図らずも論争となったが、李梓の続編出版によって、王氏は自論をほぼ看破されたも同然であった。

 皇太子から直々に引き抜かれたこともあり、王氏にとって何かと目障りな存在だと安易に想像できる。


 しかし、これほど明瞭な噂であっても、誰も王氏を糾弾することはない。

 王氏が犯人と言う確固たる証拠もなければ、李梓を庇う義理もないからだ。


 ――偶然とは言え、王氏に喧嘩を吹っ掛けちまった李梓は運が悪かったな。


 他人からすればこの程度の話である。

 出る杭はなんとやら。市井からやってきたしがない一官人のために、礼部長官・王氏に盾突くような危ない綱は渡らないのだ。

 

 そう、他人であれば。


 今、王氏と対峙している男は、李梓もとい楊武と血の繋がった正真正銘の兄弟だ。

 しかしながら、世間的には楊毅と李梓の間に、親交は無い。この関係性を逆手にとり、楊毅は王氏に鎌をかけようと考えた。


「そういえば庫部司(こぶし)の董鶚から聞きましたよ? もしかして俺、お邪魔でした?」


 少し屈んで王氏の耳元で囁く。

 駆け引きを楽しむような笑みに、軍を束ねる鬼の片鱗が伺えた。


「おや、なんのことでしょうか?」

「あの武器庫の鍵、長官のところの國維殿が返しに来たって言ってましたよ」


 わざとらしい王氏の返事と、おどける楊毅の言葉。まるで道化同士だと楊毅は内心反吐が出る思いだった。

 しかし、これも弟のためだ。心を無にして、眉一つ動かさない王氏へ話を続ける。


「ちなみに、俺は李梓殿とはあの時が初対面なんで。今のことはなーんも見てませんし、聞いてませんよ」


 へらりと笑う楊毅に、王氏はほくそ笑んだ。


「貴方も、見かけによらず人が悪いようだ」

「そりゃあ、嘉軍の鬼ですので」


 快活に笑っていた姿はすでになく、楊毅も王氏を見下ろしてほくそ笑む。

 その様子からして、楊毅が李梓や央晧に密告をすることは無いとくみ取ったようだ。


 肩の力を抜いた王氏が、一つ息をつく。


「お話できてよかったですよ、楊職方司」

「……ええ、俺もです」

「では、また」


 口を開けて笑う楊毅を一瞥すると、王氏は去った。


 王氏の背中を、楊毅は鋭い目つきで睨みつける。

 やがて姿が見えなくなると、楊毅も踵を返し、英慶宮へと急いだ。

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