陸:邂逅―兄と弟
皇太子・朱 央晧主宰の読書会当日。
楊武は暗闇の中、拳を何度も扉に叩きつけていた。
遡ること数刻。
楊武は前日に受け取った伝言の通り、文華殿に向かう前に武英殿へ向かった。
約束の場所で待っていたが、人通りは無く、誰も来ない。
仕方なく書局を訪ねたが、呼び出していないと局員たちは首を傾げるだけであった。
武英殿と文華殿は正殿を挟んで対岸に位置するため、移動にもしばしば時間がかかる。そろそろ武英殿を後にしないと読書会に間に合わない。
きょろきょろと辺りを見渡し、楊武が焦りを見せる。
まさにその一瞬の出来事だった。何者かに思い切り背後から突き飛ばされた。
「え、だ、出してください!」
目の前の建物に押し込められ、細い光に手を伸ばす。慌てて扉に手をかけたが、外からはがちゃん、と施錠する音が聞こえた。
「ちょ、ちょっとちょっと待ってください! 拙は今から文華殿に向かわないと……!」
施錠したであろう当人の気配が遠くなる。焦った楊武が声を荒げるが、返答はない。
このまま催しに遅刻をすると央晧の顔に泥を塗ってしまう。楊武は最悪の状況を想像して顔から血の気が引いていった。
「誰か! 誰か居ませんか!!」
数回扉を叩くが、外からの反応はない。
振り返って室内を見渡すが、真っ暗で何も見えなかった。おそらく閉じ込められたのは武英殿内に点在している武器庫の一つと思われるが、何が収められているかは不明である。
頼みの綱も消え、楊武は逸る気持ちから舌を鳴らした。
「早く出ないと」
何があるかも見えない状態では、武器庫の前を人が通らない限り絶望的だ。一縷の望みに全てを賭け、楊武はひたすら冷たい鉄扉を叩き続けた。
どれぐらい時間が経ったのだろうか。
暗くて見えないが、扉を叩く手は真っ赤に腫れているだろう。少し動かすだけでも痛みが広がった。
最初は拳の側面、次は手の甲、そして拳の指。拳のすべて使って叩き続けた。
拳が駄目なら手のひらで、左手で、肘で、足で。出来ることは全部やった。もう肩を振り上げることもままならない。でも振りかぶらないと大きな音が出ない。
「後、何回叩けるだろう……」
満身創痍の楊武が魂を込めてまた一つ、音を立てた。
がちゃん、がちゃん。
右手の拳と、右足で扉を蹴りつける。蹴り上げた反動で楊武は倉庫内にどさりと倒れこんだ。
ああ、もう駄目だ。
立ち上がることも出来ず、流石に楊武も諦めかけた、その時。
「誰か居るのか?」
くぐもった声と共に、鉄壁の向こうで人の気配がした。
どこから体力が湧いて出たのか、楊武はむくりと起き上がり、扉の外に居る人物へと声をかけた。
「すみません! 開けてもらえないでしょうか!」
「うぇえ!? 本当に誰か居るのか!?」
「居ます! 多分閉じ込められました! 急いで向かわねばならない会合があるので開けてもらえると助かります!」
「わ、わかった! 待ってろ、すぐに鍵をもらってくる!」
まさか本気で人が居るとは思ってもいなかったようで、扉の向こうも狼狽えているのがわかる。
楊武の焦る声につられたのか、外の人物が急いで鍵を取りに行った様子が武器庫内にも伝わっていた。
倉庫を離れる際に、手に持っていたであろう紙の束を地面に置く音が聞こえた。
閉じ込められた人物へ必ず戻ると言う気遣いなのか、それともそれほど急いで取りに向かってくれたのか、もしくは何も考えていないのか。
楊武にはわからないが、顔も見えない恩人に感謝した。
「……はぁ」
息を吐きだすと、涙腺が緩んだ。
まだ外に出られたわけではない。そして何より、文華殿に行ってからが本番だと、楊武は気を引き締めて目元を強くこすった。
「……なんか、聞いたことがある声だったような?」
まあ、気のせいだろう。金文解読の会で知り合った官人だろうか。
この宮城で顔見知りがほとんど居ない楊武は、暗闇の中で恩人の既視感について仮説を立てていた。
恩人の顔を妄想していると、地面を蹴る音が近づいてきた。ぜえぜえと肩で息をする声も聞こえる。
金属のぶつかりあう音が、倉庫の中にも広がる。
かちゃん、と音を立て、開錠と同時に扉が左右に大きく開く。暗闇に目が慣れていた楊武は、眩しさのあまり眉を顰めた。
「大丈夫か!?」
やはり聞き慣れた声がする。薄目に恩人の顔を見ると、逆光の中に見知った人物が居た。
「……!」
驚きのあまり目を見開いたが、目に入り込む光量に耐え切れず、もう一度ぎゅっと目をつむった。
さすがにこの距離ではばれてしまうだろう。楊武は片手を日よけに見立て、彼がどう反応するのかを凝視した。
「お前、皇太子府の……」
助けてくれた男もまた、楊武を見て驚きを隠せなかった。
以前は無かった目尻の符号が、確かにそこにあった。
「いや、お前、もしかしなくても楊……」
「ま、待って! 言わないで、毅兄!」
ふらつく身体に鞭を打ち、楊武は両手で頭一つ分も背の高い恩人の口を塞ぐ。
奇異なことに楊武を助けたのは、兄の楊毅であった。
「詳しいことはまた後日話すから! とりあえず僕、文華殿に行かなきゃならないんだ……!」
楊毅は、死んだはずの弟が目の前に居ることに混乱していたが、口を塞ぐ両手が傷だらけだとすぐに気付いた。
自分がこの倉庫街を通るまで、どれほどの時間を孤独と暗闇に苛まれていたのだろうか。
楊毅は眉を顰めたが、すぐに笑顔を作り、弟を安心させるように優しく声をかける。
「言いたいことは山ほどあるが、文華殿に行きゃあいいんだな!」
「う、うん?」
答えも碌に聞かず、楊毅はぼろぼろの弟をひょいと片手で俵担ぎにして持ち上げる。
提出予定の書類をもう片方の脇に持ち、文華殿へと駆けだした。
「え、え」
「舌噛むぞ! えーっとなんだっけか、り、り……」
「李梓だよ。間違っても違う名前で呼ばないでね」
「おう、任せろ!」
全速力で武英殿から文華殿への道のりを走る楊毅の口元は、なんとも好戦的な弧を描いていた。
同刻。文華殿の書庫では、主役の李梓が来ないことに少なからず焦りが見えていた。
名目は李梓を中心としているが、主宰は央晧である。つまり、李梓が会に現れないと言うのは、李梓によって央晧の面目が潰されるのと同義だ。
ざわつく書庫内に、央晧の傍を控える皇太子府の属官たちも肩身が狭く、李梓に恨み言の一つや二つや十ぐらいは罵りたい気持ちでいっぱいであった。
「李師父はお得意の寝坊でしょうか」
王氏が言うと、他の長官がつられて笑う。
皮肉にも、この会で李梓を擁護するほどの関係を持つ人間は招待されていない。
冷やかしのような冗談が飛び交う度に、央晧と皇太子府の従者の神経が少しずつ摩耗していく。
ただ、楊武が行事を無言でさぼるような男ではないことを、皇太子府の面々は重々承知していた。故に何故、今日に限ってこのような事態となっているのか不思議でならなかった。
「のう、央晧」
「なんでしょうか、父上」
「お前の師父とやらは、約束をすっぽかすような男なのか?」
徳帝の目には怒りが見える。
それは自身が軽く扱われていることより、息子の側近でありながら、息子の顔に泥を塗るような行為をしでかしていることへの怒りであった。
「朝の謁見以外でこんなことは初めてでして……」
「お、お待ちください!」
戸惑いを隠せない央晧がしどろもどろに答えていると、扉の方から制止の声が被さった。
門衛と誰かが揉めているようで、招待客らは何事かと入口へ目を向ける。
制止の声もむなしく、書庫には不釣り合いの足音を立てた巨体の影が正体を現した。
「あ~、お集まりの中、すみません。お届け物です」
門衛を押しのけ、書庫へと入ってきたのは、楊武を担いだ楊毅であった。




