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伍:武英殿の日常

 武英殿の一室にて、兵部・職方司である楊毅は書類に目を通していた。


 最初でこそ一枚一枚しっかりと目を通していたようだが、次第に膝を揺すりはじめ、ついぞ集中力は途切れた。


「ああ、駄目だ! 俺、本当に机に向かうの性に合わん!」


 机に突っ伏した楊毅に、同じ室内で事務作業をしていた董鶚は乾いた笑みを浮かべる。

 本来は違う部署に所属をしている二人であるが、楊毅と執務の相性がすこぶる悪いため、董鶚が目付け役として同室となった。


 二人は共に辺境で実績をあげ、中央へと呼び戻された、いわゆる地方からの叩き上げであるが、同じ地域に派遣されていたわけではない。

 しかし、それなりの階級の家に生まれた子供同士、幼い頃から催しで会う同世代として顔見知りであった。

 そんな二人がほぼ同時期に昇格、首都に戻ってきたとなれば、自然と時間を共にすることも多くなり、今のような関係性に落ち着いた。


「早く前線に帰りてえよ……。いつまでこんなところで紙と睨みあいしてなきゃいけねえの」


 器用に口と鼻の間で筆を挟み、楊毅は背もたれに身体を預ける。


「中央に栄転なんて喜ぶ人間が大半だろうに」

「つまんねえ! たまに演習があるぐらいで、机に座りっぱなんて聞いてねえ!」


 駄々をこねる楊毅をよそに、董鶚は次の書類に目を通す。


「つまらんのは程々同意するが、お前の防衛戦が認められた結果なんだから我慢しろっての」


 董鶚は楊毅を一瞥すると、読み終えた書類に署名をした。


 この男、戦場では鬼とも形容されるほど、軍事においては特出し、名門・楊一族の中でも三本の指に入るほどの功績を残しているはずなのだが、如何せん戦場以外ではこの有様であった。

 いつまでも駄々をこねる楊毅に、董鶚は一喝する。


「ああ! もう、うるせえ! 後で俺が読むから黙ってろ!」


 結局、いつものように董鶚が折れて、楊毅の分も書類に目を通すこととなる。


「やったー! ありがとうな、董鶚! 俺は今から読書だ!」


 諸手を挙げて喜ぶ楊毅に反して、額へ手を当てて項垂れる董鶚は「これで今日も残業か」と楊毅に甘い自分を責めた。

 とはいえ、董鶚が仕事を終えるまでは、楊毅は必ず忠犬のごとく執務室で待っている。生真面目なところも、楊毅を憎めない要因であった。


「……」


 急に静かになった楊毅を横目で見ると、既に書物の虜であった。

 彼の場合、弟とは異なり、書は書でも兵法に関する書物のみである。それ以外の書物を与えるとすぐに集中力が切れる。


 手元の兵法書は、誰が見ても相当読み込まれたものとわかるほど、使い古されている。

 集中すると周りが見えなくなるのは兄も弟も同じようだ。


 この状態の楊毅は、放っておくと朝まで兵法に夢中であるが、逆に集中力が途切れることがないので、董鶚にとっては執務が進むのでありがたい。

 今日の夜は何を食べようかと思案しつつ、董鶚はひたすら目の前にある書類を捌き続けた。



 夕刻。

 宮城の西側にある武英殿一帯は、西日が強く入り込んでいた。


 楊毅は変わらず書物に夢中である。

 董鶚の机の上は、署名を終えた紙の束が未処理の束より随分と多くなっていた。


 そんな中、珍しい客が尋ねてきた。


「楊毅と董鶚は居るか?」


 兵部尚書(へいぶしょうしょ)――兵部の長官で、二人の上司にあたる武官であった。


「楊毅なら声聞こえませんよ」

「ん? ああ、いつものか」

「残念ながらー。で、何の御用で?」


 董鶚のゆるい口調を気にすることもなく、兵部長官は要件を告げる。


「皇太子殿下からご招待を受けてな。なんでも読書会をするらしい」

「読書会?」


 軍事の頂点に立つ男からは想像もつかない単語に、董鶚は筆を止めて顔をあげた。


「ああ、詳細はわからんが、文華殿の書庫で行うらしい。その間、席を外すので伝えておこうかと」

「何かあれば侍郎(じろう)殿を通せばいいんですかね?」

「ああ、それで問題ない」

「了解でーす」


 気の抜けた董鶚の返答を聞くなり、兵部長官は次があると言って部屋を去った。

 相変わらず忙しい人だな、と董鶚は閉まる扉を見つめていたが、すぐに書類に視線を落とした。

 ちなみに侍郎とは各省・部の第二席のことである。


 なお、このやり取りが行われている間も、楊毅は眉一つ動かすことなく兵法書を読み続けていた。

 兵部長官の伝言は夕飯時に董鶚が伝えたが、彼の記憶に残っているか定かではない。



 読書会を翌日に控えた英慶宮は、朝から忙しなく人が行き来していた。


 属官たちは準備で、文華殿と英慶宮を何度も往復している。

 しかし楊武だけは「主役に怪我をされては困りますので」と郭屯に諫められ、今日も一人自室で執筆を続けていた。

 尤も、怪我言うのは表向きの話であって、使用人として戦力外の楊武を自室から出さないための言い訳に他ならない。


 部屋の外では英慶宮の属官たちが「これはあっち」「それは持って行かない」など声をあげているが、筆を持った楊武には一切聞こえていなかった。



 現在、好評連載中の『穆天子伝』であるが、訳すのが難しく筆がなかなか進まない。

 先日、公報の担当に「一度に掲載する枠を広げたい」と言われたが、これ以上の速度で読み下し、意訳を作るのは無理だとばっさり切ったばかりだ。


 執筆を始めてしばらく。

 空腹を感じてようやく集中力が切れたのは、既に日が暮れてからであった。

 いつもならば英慶宮の六人のうち誰かが声をかけてくれていたが、今日はそういうわけにはいかなかったようだ。


「ん~」


 凝り固まった肩を回し、部屋を出るべく私室の扉の前に立つと、床と扉の隙間に紙が挟まっていることに気付く。


「なんだろう」


 二つ折りにされた紙を開けると、李梓宛ての連絡事項が書かれていた。


「誰が書いてくれたのかな……」


 紙には見慣れない筆跡で、明日の読書会前に武英殿に寄ってほしいと言う内容が書かれていた。

 名前も所属も書かれていないが、武英殿は書局がある場所である。印刷に向けた木版を制作中の『竹書紀年』と言う案件がある以上、滅多に足を踏み入れることは無いが、呼び出される理由は確かにあった。


 ぐう。


 限界を超えた腹の虫が、大きな声を上げる。

 楊武は考えることをやめて、伝達を懐に仕舞うと、今度こそ食事へ向かった。


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