弐:嘉王朝―今昔
時は嘉王朝。天命に従い、建国されてから二百年ばかり過ぎた。中興の祖と名高い、七代皇帝・徳帝の御世である。
現皇帝は歴代でも指折りの治世を誇ったと記録されている通り、国政・外交共につつがなく執り行われている。異民族からの大々的な侵略も無く、嘉国から侵略戦争を起こすわけでもない。むしろ他国とも交易が盛んに行われていた。
その国内外の穏やかさと比例し、徳帝の時代は文化の発展がめざましかった。特に、紙の発明以後、宮中だけではなく市井でも書物が流行をなしていた。徳帝の嫡子である朱 央晧も、書物を好む一人であった。
皇太子・朱 央晧と楊武の師・孫師父の関係は、教師と生徒であった。
身分上、央晧は一般教養以上に学問を学ぶ必要があった。知識があっても偏った視点で物言う人物では良き君主は育たない。検討を重ねた結果、徳帝も懇意にしていた孫師父が皇太子の一切を任される皇太子府の長・太子太傅に任命され、教育係の一人に選ばれた。
今から三年ほど前、諸々の功績をふまえた結果、師父は国史編纂の勅命を受けた。
しかし央晧の教育係として、国史として確固たる地位を持つ歴史書をかみ砕き、面白おかしく語る程度はできても、幼い太子に対して細かい事件まで教えていたわけではない。そもそも歴史は孫師父の専門外である。
明らかに自身の範疇を超える皇帝からの命に、師父は頭を抱えた。国史の委細をまとめた書物を作成するとなれば、まさに手探りで一から取り掛かることになる。結果、新しく分野の異なる弟子をとる運びとなった。それが師父の最後の弟子である、楊武だった。
楊武と言う男は、自身の身分はないに等しいが、一族となると話は別であった。
楊一族と言えば、武官の間では震え上がる者も居る名家である。楊武以外の兄弟も全員、武官として出仕しており、ひとたび辺境で戦になると必ず功績を残していた。まさに泣く子も黙る軍事の名門であった。
一族の功績は建国にも遡るらしいが、楊武自身には武人としての才能が全くなかった。
趣味と言えば書物を読むこと。出世の願望も無ければ、兄たちから散々聞かされていた宮中のいざこざに嫌悪すら感じていた。
”――自分は絶対に出仕はしない。“ 幼いながら、心に誓っていた。
成人を目前としてもなお、日がな一日書物を読むか、寝ているかの楊武に両親すら苦悶していた。
そんな矢先、祖父が宮中で師父の国史編纂を耳にした。まさに楊武のためにあるような招集に祖父は師に直談判した。名家の願いとあっては師父も二つ返事で承諾するしかなかった。
武官には不向きだが文官としては圧倒的な適正があると言う、楊家の四男坊の噂を宮中で耳にしていたが、果たしてどれぐらい役に立つのか。
期待半分で楊武を迎えたが、誰もが想像していないほど、歴史家としての才能を開花した。
彼は宮中にある書庫の目録を把握しているだけでなく、その内容もほぼ完璧に理解していた。これには師も兄弟子たちも驚きを隠せなかったが、本人は科挙試験への対策だったとへらへら笑っていた。出仕するつもりが無いため、今年も科挙に受験をしなかったようだが、もし受験していたらほぼ合格していたに違いない。あの時ほど師父や兄弟子たちは、彼の野心の無さに感謝したことは無かったと言う。
そんな楊武の特技の甲斐もあって、書物から見る国史は二年も経たずしてまとめ上がった。
しかし、「それだけでは裏付けが確実ではない」と師は首をひねった。更なる裏付けを求めて、近年は遺跡調査と最も有名な歴史書『太公史誌』等の史書が語る歴史を照らし合わせる作業に取り掛かっていた。
その中で現在調査を行っていた場所が、楊武の逃げ込んだ王墓だった。一部の副室に描かれた壁画や、盗掘を逃れた残置物から、作られた年代や被葬者の特定を行っている途中であった。
その日は帰宅後、国史編纂をしている師父らと、学舎で教示している弟子らが一堂に会し、晩餐を行っていた。珍しく弟子が全員揃っていたその夜、彼らを炎が襲ったのだが……。
「……話が長いぞ」
退屈そうな声が、つらつらと話す言葉を遮った。