陸:李梓と英慶宮
「と、言うわけで昨日はお疲れ様でした」
央晧が自室を出た後、楊武はすぐに英慶宮の六人を広間に招集した。
まずは劉巴、羅浪、姫沛に改めて感謝を述べ、本題へと入る。
「え、あの拓本そんなすごいものなんですか!?」
昨日、楊武が眠りまなこでたんぽを叩いていたのを盗み見ていた劉巴は、信じられないと言った様子であった。彼は拓本を蒐集している側の人間なので、驚きは割り増しだろう。
「ちなみにこれ、なんて書いてあるんでしょうか?」
昨日、作業に参加していなかった、班該、顔勒、郭屯も三様に拓本へ興味を示す。それに同調して、劉巴、羅浪、姫沛も身を乗り出した。
長机に一つだけ広げられた拓本へ、六人と楊武の視線が集まる。
「ちょっとわからない文字……、と言うか単語が多いのですが。
文王が天命を与えられ、武王が康と異民族を討ち、その後、成王と康王が国を治め、昭王がまた異民族を退け、穆王は文・武王に倣ってよく国を治めた。みたいな感じですかね?」
前段に書かれた内容を楊武は簡単に訳した。
「この青銅器は、二百八十四文字ありました。そのうち、前半が寛王の羅列、そして後半が自分の祖先の功績を称えています」
感嘆の声をあげる六人の顔色を窺いつつ、楊武は解説を続ける。
「昨日お三方に手伝っていただいた青銅器も含めて、この青銅器は“微”と言う一族が何代にも渡って作った青銅器群と見て間違いないです」
「文王とか武王ってあの寛を建国した王ですよね?」
「その通りです。文・武王については何度か二人同時に銘文に刻まれている青銅器もありました。もちろん、他の王も各々刻まれている青銅器はあります。しかし、系譜の順番がわかるような銘文はなかったんです」
楊武は懐から使い古された『史誌』の一冊を取り出した。
「この表に書かれている王統譜、今までは文王と武王しか線として扱えなかったのですが、一気に六代までが一筆で結ばれました」
六人のうち、何人かが固唾を呑む音が聞こえた。
「正直、前寛と言う時代は出土資料が少ないうえに、あまりに神格化されすぎていて、伝説上の王朝である可能性も示唆されていました」
楊武が『史誌』をぱらぱらとめくりながら話を続ける。
出土資料とは、読んで字のごとく発掘で見つかった史料のことである。また、『史誌』のように伝承されている史料は伝世文献と言う。
「康はその点、時代は遡りますが、康墟と呼ばれる大規模な宮城址地がありますので、考古学的に確証がある王朝なんですよ」
ぱん、と音を立てて『史誌』を閉じると、楊武に見入っていた英慶宮の従者たちの肩が跳ねた。
「と、まあ今のところ内容については極秘事項なので、昨日の拓本はまだ交換には出さないでくださいね?」
隈で縁取った目を細めて楊武は笑う。元から下がり眉なうえ、青白い顔も含めると軟弱な男の儚い笑みにも見えなくないが、六人はこの笑みが決してそんな生ぬるいものではないことを知っていた。
「もちろん、七十四器全部ですよ」
念を押した楊武は、「もう少し掘り下げたい銘文がありますので、これにて」と袖に隠した両手を組み、上機嫌で去っていった。
「……明日もあの人、謁見までに起きないな」
嵐のように去った楊武の背中を見送り、羅浪が引きつった笑みをこぼした。
「多分、夕飯も食べないよ」
「ありえる」
姫沛に対して顔勒もうなずく。
李梓は没頭すると寝食を忘れる。
これは既に六人の共有事項であった。
彼らは李梓――もとい楊武を、”人柄も悪くない、知識量も豊富で、孫師父の後釜としてうってつけであるが、行動に難があり“と評価していた。
そう、悪い人ではない、特定の事象に対して暴走癖があるのが玉に瑕なのだ。
出会ってからの数か月。発見に次ぐ発見が続き、楊武が興奮した姿を何度見たことか。
事あるごとに付き人として振り回されている英慶宮の属官たちこそ、李梓の暴走癖に対する一番の被害者であった。
また、今日のように機嫌が良い日には、宿直の巡回に「李梓の私室」と言う項目が追加される。
しっかり就寝している日があるのは知ってはいる。しかし、文物を目の前にして上機嫌な時は、大体徹夜を迎えていた。これはもはや経験則だった。
昼前のうららかな英慶宮の広間に、複数の乾いた笑みとため息がどんより染み渡っていた。