壱:王墓での出会い
炎が、目の前まで迫っていた。
屋敷の柱なのか、それとも別の何かが焼ける音なのか。爆ぜるような音に何度肩を震わせただろうか。非日常的な熱さと肌を刺すような痛み、そして目がくらむほどの眩しさ。
全てから逃れるため、兄弟子たちの痛々しい呻き声を背中に背負いながらも、彼は走り続けた。
”振り返ってはいけない。“
自分を送り出した兄弟子たちの怒号とも悲鳴とも言える荒げた声を頭の中に何度も反芻させる。震え上がりそうな光景が脳裏をよぎると、足がもつれようとも止まることは出来なかった。
彼――楊武はわき目も触れずに、ただ走り続けた。
どのくらい走っただろうか。
都付近の華やかさはすでに無く、辺りに明かりは無い。かろうじて鬱蒼とした木々が生えているのが分かる程度だった。
沓は途中で脱げた。足の爪に小石が挟まっているのか、違和感がある。きっと土ふまずの皮も破れているだろう。しかし痛みに鈍くなっているのか、もうよくわからない。
ただ、立ち止まろうとすれば足裏に感覚が戻り、じわじわと痛みがよみがえる。皮肉にも、歩みは止められそうにない。
両手で獣道をかき分ける。ぱき、と音を立てて左足が鋭利な枝を踏みつけた。楊武は一瞬だけ顔を顰めたが、下を向くことなく目的地まで走り続ける。
道が開けた。たどり着いた先は、楊武が師と共に発掘をしている遺跡だった。此処を目的地としていたわけでは無かったが、自然と足が遺跡へと向かっていたらしい。
前代に栄えていた王族のものと見られる大きな王墓は、発見された時は入口を岩でふさがれていた。数か月前に石が取り払われ、今はどこまで続くかわからない暗闇が不気味に浮かび上がっている。
穴は来るものを拒む気配もなければ、入ったものを逃すつもりはないように見えた。他者には恐ろしいと感じる暗闇でも楊武にとっては、気心の知れた職場のようなものであった。鉛のように重い身体を引きずりながらも、楊武は躊躇いなく穴へ吸い込まれていった。
壁つたいに勝手知ったる横道を進み、途中の段差もなんなく飛び降りる。傷だらけのかかとが、硬い地面を踏みしめた。相変わらず暗闇だが、内部は開けており、足元に障害物が無い。此処は中道と呼ばれる被葬者が眠る場所へと続く広い空間である。楊武は勝手知ったる場所と言わんばかりに奥へと進んでいく、死に場所にこの地を選んだのであれば、行先は一つしか無かった。
中道を棺のある部屋とは反対に進むと、三つの副室がある。そのうちの真ん中の部屋こそ、彼が昨日も壁画調査を行っていた場所だ。楊武は勘だけを頼りに、中央の部屋へと足を進めた。
(まさか、こんなことになるなんて――……)
昨日も師と兄弟子たち調査を行い、考察を持ち帰って調査報告を書き溜めた場所だ。代わり映えのない、しかし充実した日常を繰り返していたはずだった。暗がりに、兄弟子たちの背中が浮かび上がった気がした。その背中を追いかけようとしたが、幻は手をすり抜けるのみ。足を土にとられた楊武は、その場につまずいた。
仰向けに暗がりを見上げると、炎がよぎる。耳鳴りがしそうなほど静かな墓内に、うめき声が聞こえてくる。とっさに目を閉じても、ついさっき見た地獄のような光景が瞼の億に広がる。あれは現実なのだと、忘れかけていた痛みが両足も訴えてくる。
今、顔を伝うものは涙なのか、鼻水か、それとも血なのか。心をくじかれた楊武にとってはもはやどうでもよかった。彼の慟哭が室内にこだまし、がらんどうの墓も共鳴しているようだった。
「……」
炎の熱さで喉に負担がかかったうえに泣き崩れたせいか、うまく声が発せない。喋ろうとしても乾いた息が漏れるだけだった。喉仏に手を伸ばしてみるが、やはり声は出なかった。このままでは助けを呼ぶことも出来ない。楊武の心は、もはや繊細な飴細工のようにいつ砕けてもおかしくなかった。
それを助長するように、土の冷たさを感じていたはずの足裏に感覚がなくなってきた。
このまま自分も死んでしまうのだろうか。いよいよこの墓内で一生を終えることを嫌でも自覚する。
暗くてわからないが、楊武が座り込んだ場所は、おそらく数日前も師父と絵解きをしていたあたりだった。もはや楊武には、壁画が崩れる可能性を考える余裕すらなかった。
兄弟子たちが命をかけて救い出してくれたが、その期待に応えることができないまま、後を追うことになるのだろうか。楊武の虹彩が役目を終えようとしたその時。松明の灯りが副室を照らした。
「やはり此処であったか」
静まり返っていた室内に、声変わりのしていない幼い声が響き渡る。久しぶりに感じた光と音に、頭がくらりとした。かろうじて動いた眼球で見上げた先には、松明を持った体格の良い男と、髪を一つに束ねた少年が立っていた。
――きっと、師の屋敷に火を放った連中なのだろう。
此処まで追いかけてくるとは執念深いな。楊武は死を覚悟して嘲笑した。それを見た少年は眉をしかめて言い放つ。
「おい、孫師父の弟子よ。お前は此処で諦めるのか?」
何を言っているのだろうか。こんなところまで追いかけて来て、諦めるなと言われても逃げ場などない。何より生を諦めて憔悴しきった楊武は、少年の言葉の半分も理解できていなかった。
反応を全く見せない楊武の姿に苛立ちを隠せないのか、少年が舌打ちをする。「どけ!」と声を荒げると、傍に控えていた男を押しのけ、楊武の足元に立った。
「もう一度言うぞ! 孫師父の弟子よ、師と兄弟子たちの仇を討ちたくはないか?」
薄く目を開くと、少年はじっと楊武を見据えていた。松明の光を受けた少年の服装はを見て、ようやく意識がはっきりとしてきた。平民はおろか、そこらの官吏ですら着られるものではなかった。
言うことを聞かない体に叱咤し、眼球を動かす。松明を持つ男性の身なりも常人ではないことが一目で分かった。袍の色と中央に施された刺しゅうには見覚えがあったからだ。
楊武は目を疑った。てっきり追手だと思っていた彼らは、やんごとない身分だった。放火犯だと思い込んでいたが、もしかすると助けが来たのかもしれない。目の前の二人に、一縷の光を見出した。なぜ師を知っているのかまでは理解出来なかったが。
少年も楊武の瞳に生気が宿ったのを感じ取ったのか、見下ろす表情は幾何か緩和されていた。
「最後にもう一度だけ聞くぞ、孫師父の弟子。余と共に来ないか?」
少年は口に弧を描き、手をさし伸ばした。その手にすがろうと楊武も手をわずかに伸ばしたが、背後の男の肩がぴくりと震えた。その一瞬を、楊武は見逃さなかった。この二人の関係性を大まかに理解した楊武は、少年に触れていいものか少しばかり考えた。半端に宙を浮いていた腕は、しびれを切らした少年によって掴まれた。
「余は央晧。お前の名を教えてくれ」
口角を吊り上げ、力強い目が楊武を見下ろす。未だに何が起きているのか楊武は理解しきれていなかったが、感覚の無くなっていた手のひらから確かなぬくもりを感じた。