伍:前寛の存在証明
翌日、楊武は早朝の謁見から帰ってきた央晧へ駆け寄った。
「太子、少しだけお時間よろしいですか?」
「ええ、構いませんよ」
にっこりと笑うと、央晧は博文に人払いをさせて楊武の自室へと向かった。
いつもの透かし彫りの椅子に座ると、肘をついて机に向かう楊武を見つめた。
「それで? 早朝の謁見にいつも出ないお前がこんな時間に起きているなんて珍しいな?」
「うっ……」
早朝の謁見とは、毎朝正殿で行われている皇帝の挨拶である。
一日の執務前に文武官が一堂に集まり、輿に乗った皇帝の姿を拝謁する。
皇帝と顔を毎日あわせることで、皇帝と国への忠義を一層高める、言うなれば儀式の一つであった。
原則は全員参加で、皇太子の央晧すら臣下と同じ立ち位置で挨拶をしているのだが、楊武は今まで一度も出ていない。
太子中庶子と言う皇太子の側近の一人に選ばれて早半年以上。楊武はすっかり昼夜逆転した生活を送っていた。
央晧は下手に顔を知られることもないので、気にしていなかったが、誰も咎めてこないことをいいことに楊武は謁見をすっぽかし続けていた。
「まあ、それについて、今は言及しないでおく」
固まる楊武の様子に、片目を閉じてため息をつく。これではどちらが年上かわからない状況だ。
仕切り直しと言わんばかりに、央晧は机に広げられた拓本へ身を乗り出した。
「これは先日宝物殿に届いた例の青銅器の拓本です」
「ああ、一昨日、余が申請を出した……」
「はい。おかげ様でどうやら一番乗りだったようです」
楊武は央晧の方へと身体を向きなおし、ありがとうございました、と礼を深くこうべを垂れた。
邪な感情が一切含まれていない謝辞に、未だ慣れない央晧は、どう返答しようかと考えていると、楊武が顔を上げ、気まずそうに話し始めた。
「それでですね……。実はこれ、自分が最後にとった拓本なのですが、昨日あまりに疲弊していて最後は全く銘文を読まないままとっておりまして……昨日の夜、目を通したのですが……」
「それで?」
「ご報告が半日遅くなりましたこと、お詫び申し上げます」
そう言うなり、楊武はもう一度項垂れる。
一方、央晧は、報告が半日遅れたぐらいでなぜそこまで落胆しているのかがわからず、首をかしげていた。
「別に半日ぐらい遅れたって問題なかろう?」
「いえ、これは可及的速やかに事実をお教えしたい案件なんです!」
楊武が勢いよく上げ、央晧に食い下がる。
「その理由がこれです」
落胆していた様子は既になく、身を乗り出して二段に分かれていた銘文の前半を指さした。
「此処から、此処まで。歴代寛王の名前が並んでいます」
「!」
「そしてこの刻まれた寛王は、文王から穆王……。つまり前寛の王なんです」
驚きのあまり、楊武と青銅器を見比べる央晧を横目に、楊武は熱弁を続ける。
「今まで発見された寛代の青銅器は、大半が後寛代に作られたもので、実は前寛の青銅器は少ないんです。
なので『史誌』の言う歴代寛王の系譜を正しいと裏付けできず、作者が偽装した可能性すらあると言われていました」
今まで幾度となく孫師父や、他の指導係からも、寛は「理想の王朝」であり、寛王は「優れた王」であると言われ続けていた。央晧は、彼らが実在すると疑ってやまなかった。
「師父も国史編纂を始めてからは『史誌』の信ぴょう性と言うのを疑っておられましたし、これは先人の研究でも既に言及されています。
神代の話なんかはわかりやすいのではないでしょうか。にわかには信じがたい逸話が多いと言いますか……」
違和感はあっても疑ったこともなかった『史誌』への疑問をぶつけられ、央晧は言葉を発せなかった。ただ、楊武の口が開くのを待っていた。
「これは極論ですが、前寛と言う時代そのものが虚構である可能性は大いにあると拙も思っていました」
口を開いたまま驚きを隠せない央晧をそのままに、楊武はまくし立てて話を続ける。
「後寛はともかく、遷都する以前の寛は幻の王朝でした。何せ史料が『史誌』しかほぼなかったので。
ですが、この青銅器の銘文によって証明されたと言っても過言ではないんです! 全員ではないにしろ、武王から順に系譜が続くとわかっただけでも大収穫です! しかも出土場所も前寛の首都近くですし……。
いやぁ、そう思うと『史誌』はすごいなあ……」
もはや眼中に央晧が見えていないのか、楊武は一人つらつらとこの拓本の価値と『史誌』の正確性を述べ続けた。
途中までは央晧も真剣に話を聞いていたのだが、途中から歴史的発見の興奮よりも、与えられる情報量の多さにこめかみを押さえた。
大発見なのはよくわかったが、朝一の、それも頭が働ききっていない時間に洪水のように押し寄せてくる楊武の解説。
これが以前、博文の言っていた竹簡の発見で興奮しきっていた楊武か……、と央晧は顔を顰めた。
「……それで、何故そんな大発見を余一人に伝えた?」
一向に終わりそうにない話を、央晧が無理矢理収束させる。
楊武は央晧の問いにぽかんと口を開け、少しだけ考える素振りをしていた。
「えっと……。な、なんででしょうか?」
「は?」
思わぬ回答に央晧も間抜けな声をあげる。
「伝えるのが遅くなったことを謝らないと、って気持ちでいっぱいだったんですが、予想以上に太子が真剣に聞いてくださったのでうれしくなって……。つい、たくさん語ってしまいました」
楊武は照れた様子で後頭部を掻くと、瘤に当たったのか「痛っ」と一人戯れている。
央晧と言えば、嬉しいような、恥ずかしいような、複雑な思いが胸中を渦巻いていた。
途中までは確かに真剣に聞き入っていた。
たった一日で解読し終えた頭脳も、国の教本とも言われる書物を疑う思考力も自身には無い。そのうえ、確証を得ると素直に教本の優良さを称賛する柔軟さも備えている。
研究者として必要なものを全て兼ねそろえた楊武に対し、央晧は純粋に尊敬の念を抱いた。
それを見透かされていたのが恥ずかしくもあり、嬉しくもある。
損得勘定なしに本音をぶつけてくる楊武に、相当絆されていると央晧自身は思っていた。
「阿呆か!」
完全に照れ隠しであるが、央晧は楊武の鼻を抓った。
「まあ、よい! あの六人にもちゃんと報告しておけよ」
抓る指に力を込めると、無防備だった楊武が「ぎゅ」とおかしな声を上げた。
思いがけぬ音に央晧も吹き出しそうになるが、笑ってはせっかく張った見栄が台無しだと懸命に堪えていた。
鼻から手を離し、央晧が勢いよく立ち上がると、部屋を出る前に楊武が縋りつく。
「ま、待ってください、太子~! まだお願いが……! 青銅器の閲覧を一時的に止めるようにお願いしたいのですが!」
央晧は楊武の腕をすり抜け、聴こえないふりをして部屋を出ていく。扉の向こうでは楊武がまだ何か訴えているようだ。
「楽しそうでしたね」
大股で出てきた央晧へ、外で控えていた博文が言う。
「そう聞こえていたなら、医者に診てもらった方がよいぞ」
「……そうですね」
博文の隣を通り過ぎる際に一瞬だけ見えた、頬を緩める央晧の姿。
博文は何も言わずに受け入れ、主の背中を追いかける。
もちろん、央晧の向かう先は宝物殿であった。