肆:金文の拵え方
翌日、楊武は息を止めて慎重に半紙を小さな溝に押し込んでいた。
木の皮のように薄いへらを、少しずつ、絶妙な力加減で、わずかな溝も逃すまいと丁寧にこすり、半紙を溝へ埋め込んでいた。
「っあー……」
背の低い机で腰を痛めた楊武が大きく伸びをする。同時に集中力が切れたのか、頭を掻いた。
「痛……」
泣きっ面に蜂。腰も痛ければ後頭部も痛い。
思わずしゃがみ込んだ楊武に、各々作業をしていた英慶宮の官人たちが苦笑した。
「瘤が痛いんですか?」
「……はい」
楊武、もとい李梓へ顔を向けながらも、器用に手を動かしていた劉巴が言う。
今日は遺跡調査に向かった三人ではなく、別の三人と共に作業をしていた。
歳が若く、手先が器用そうな三人を選んだのだが、正解であった。みな、楊武よりも遥かに調子よく作業を進めている。
「公主様っていつもああやって抜け出されるのですか?」
「以前はよく太子の様子を見に来られていましたが、最近はあまり……」
「孫太子太傅が亡くなられたこともあって、気にはかけられていたみたいですが」
まあ、後宮から勝手に抜けるのはあの人の特技ですよ。羅浪も手を動かしつつ苦笑した。
劉巴や羅浪の言い様からも、彼女が頻繁に英慶宮へ足を運んでいたのが安易に想像が出来た。
昨日起きた英慶宮での騒動は、属官達には当たり障りのない程度に話が伝わっていた。
何故か、楊武が勢い余って椅子ごと後ろに倒れたことも、である。
あの転倒で、楊武は背もたれの角で瘤を作っていた。今日も患部に当たらないよう、高い位置で髪を一つに結い上げている。
「突然女性が入ってくるだけでもびっくりしますよね」
凝り固まった肩をぐるぐると回していた姫沛も同情の笑みを浮かべる。
「その上、李君呼ばわりされてしまうと転げ落ちたくもなりますよ……」
「我々も李君とお呼びすれば慣れますかね?」
「拙、みなさんと同列以下なので……。絶対にやめてください……」
揶揄う劉巴を全力で否定する。
もし此処に央晧が居たら「お前は本当に冗談が通じないな」と言われていたであろう。
「噂では大人しいって聞いていたんですが」
「男以上に男勝りすぎて、式典では口を開くなって言われてるって、前にご本人が言ってましたよ」
物静かだが、はっきりと物事を言う第一公主。
世間ではそう言われているが、実際はあの通りであった。
楊武は、「物腰も柔らかく、聡明な理想の次期皇帝」と央晧が言われていたのを思い出し、猫を被るところも血は争えないのだな、と納得していた。
息を吐きだして肩を落とすと、楊武は目の前の宝物に目を向けた。
「それにしても、みなさん器用ですね……」
今、楊武たちが居るのは宮城の北西に位置する宝物殿である。
央晧の迅速な対応のおかげで、楊武たちは例の青銅器を一番に見ることができた。
この青銅器群は、現在の都の西にあたる、前寛時代に都が置かれていた地域で発見されていた。地盤沈下によって空いた穴には、百器ほどの青銅器がほぼ無傷で収められていた。
発見の報告を民衆から受け、県長から都へと移送され、宝物殿に収められたばかりだ。
そして今、楊武たちは絹を丸めたたんぽを使って凹凸を記録する――いわゆる拓本を取っていた。
溝にうまく半紙を埋めないと綺麗に文字が浮かび上がらないため、かなりの器用さが求められていた。
「青銅器は官人の嗜みですからね」
そう言うと、姫沛はまた一つ拓を仕上げた。
古代の文物は歴史的価値が高いのはもちろんだが、芸術的価値も極めて高い。
彼ら官人たちは狭い箱庭で日夜働き、決まった休み以外は官舎で寝泊まりをする。数少ない娯楽で、たどり着いた先が宮城内に趣味を作ることだった。その一つが拓本蒐集である。
無論、本物は一つしかなく皇帝の私物にあたるので、手に入れることができない。しかし、拓本であれば、申請すれば宝物殿に入ることも、拓本を取ることも可能となる。
当然だが、申請を出すにも許可を得るにも、それ相応の地位が無ければならない。
つまり、拓本を数多く所持していると言うことは、自身の地位の高さだけでなく、伝手をいかにうまく利用しているかも重要となる。
彼ら官人は、せっかく編み出した趣味の場においても、権威と人脈に振り回されていた。
「沛さんも拓本蒐集されているんですか?」
「僕自身はしてないですけど、友人がね。普段から駆り出されて拓本をとっていたんですよ」
なるほど、と楊武は頷いた。
「巴は蒐集していて、私はその付き添いで」
羅浪が言うと、劉巴が手を止めることなく楊武の方へ歯を見せて笑った。
気兼ねなく話せるようにはなったが、慣れた手つきで次々と拓本を取り続ける三人を見て、やはり彼らは生まれながらにして貴族なのだと、楊武は改めて思った。
英慶宮の属官は、身分が高い。
彼らは科挙試験を通った下流貴族や地方官僚ではなく、全員が上級階級の出身である。彼らの家族のほとんどが政治の中心を担う著名人ばかりだ。
特にこの三人は、現皇帝の補佐にあたる親を持ち、次世代の皇帝となる央晧に仕える典型的な大家の嫡子であった。
家柄だけで言えば楊武も同等であるが、武官の楊一族から文官として出仕するのであれば、おそらく六品以下――つまり、皇帝謁見の資格がないところからの出発であった。
李梓と言う無名の、それも市井出身の一研究者に対して、いきなり太子中庶子と言う地位が贈られたのは、まさに異例の大出世であると理解できるだろう。
「ついこの前までただの民草だった拙には、恐れ多い趣味ですね」
腰を屈め、青銅器と向き合う。既に腰が痛いが三人の手際の良さのおかげもあってあと少しで終わる。
足腰に叱咤激励をし、楊武は再びへらを手に取った。
夜。自室の燭台を灯し、楊武は今日取り終えたばかりの青銅器の拓本を見ていた。
楊武の自室は博文によって運び込まれた時から変わっていなかった。
本来であれば官人は、官舎街に部屋を与えられるが、空き部屋だったこともあり、楊武はそのまま英慶宮に居座ることを許された。
「今日はみなさんのおかげで思ったより早く終わってよかったな……」
未だに神経がびりびりと痛む腰をさすり、読み終えた拓本をめくる。
楊武と英慶宮の六人は、属官たちが宿直に当たった際、自室で話をするぐらいにはよい関係を築き上げていた。
特に今日も共にしていた三人は年が近いこともあってよくからかわれている。
亡き孫師父の代わりに市井からやってきた李梓として扱われるのにも、彼らのおかげで随分慣れた。
夜のおぼつかない灯り程度では、化粧を落としたところでほくろの有無を問われることもなかった。
「……」
金文は大抵、主君から受け賜わった青銅器に文字を刻んでいることが多い。何より後付けで金文だけを彫ることが出来なかった。
器が作られてから金文が刻まれたのは確かだが、その方法は未だに解明されていない。まさに古代の英知。そこには作られた時代の、当時の声が刻まれているのだ。
内容は、戦争での功績が多い。
製作者の一族が、如何に諸侯や王に従順に仕え、貢献し、青銅器を受け賜わったかを悠々と物語っていた。
「え」
楊武は思わず手を止めた。
それは今日、彼が最後に拓本をとった銘文であった。
腰は痛く、目も焦点があわない。完全に疲弊しきっていたため、百文字を超える銘文には目を通さず、ひたすらたんぽを叩いていた一枚であった。
「ちゃんとあの場で読んでおけばよかった……!」
今更頭を抱えても遅いが、後悔のあまり楊武は机に突っ伏した。
「あー……。また明日太子に怒られる……」
決して本気で怒鳴られているわけではないと自覚はある。どちらかと言えば央晧から親愛のような感情すら感じ取っていた。
……素直になれず、理不尽に怒られることも多々あるが。
しかし、今回は自分のせいでこの発見に気付くのが遅れた為、気が重い。
一枚の拓本を丁寧に折りたたみ、敢えて他の拓本の下に隠した。
拓本に目を向け、再度自責の念で項垂れる。のっそりとした動きで灯りを消すと、楊武は背中を丸めたまま、寝台に潜り込んだ。