参:竹簡と金文
「例の竹簡、全然進んでないの?」
遼煌は楊武が座っていた椅子に腰をかけると肘をついた。
あれからしばらくして、ようやく騒動にひと段落がつき、話は遼煌に何処へ座ってもらうかと言う問題に移行した。
央晧はいつもの龍彫りの椅子に座るとして、楊武の自室にはほとんど家具はない。恐れ多いが遼煌には今回のみ、楊武の机に備え付けられた椅子へ腰かけてもらうことになった。
抽象的な蓮が特徴的な椅子は、央晧の座る椅子よりも質素であるが、楊武が座るよりも幾分鮮やかに見え、室内に彩りを添えていた。
楊武と言えば、皇族が各々席に着くと床に正座したのだが、央晧たちにひき止められた結果、寝台で正座をしている。
「今でようやく半分と言ったところです」
楊武が机の上に並べられた竹簡に目を移すと、遼煌や央晧もつられて机を見た。
黒こげになった竹簡に、かろうじて読める古代文字が書かれているのを見て「これは……前途多難ね」と遼煌は絶句した。
「現存している書物については数日の間にほぼ復元したのですが、見知らぬ書物や欠損している部分については……」
「そりゃあそうよね、知らないんだもん」
遼煌の言葉に楊武はがっくりと肩を落とす。央晧が楊武を励まそうと言葉を選んでいる間に、遼煌が話しを続けた。
「じゃあさ、ちょっと気晴らしに違うものを見てみない?」
何かを思いついたらしい遼煌は、ずいと楊武に顔を近づける。近づかれた分、腰を引いた楊武は寝台へしりもちをついた。
「李君、金文は読めるの?」
「ええ、金文は科斗書と違って研究も進んでいますので」
金文とは、青銅器に刻まれた文字のことである。
石に刻まれた文字と共に金石文と呼ばれることもある。
此処数年、康代から後寛代に制作された青銅器が度々発見されていた。それぞれの時代によって装飾や文字の形も異なるが、根底の形が図像に近いこともあり、解読研究は近年目覚ましい発展を遂げている。
「前に畑から青銅器が出て来たのは知ってる?」
「ああ、村はずれの穴からほぼ完全な状態で発見されたっていう……」
「そうそう。あれ、少し前に宮城の宝物庫に届いたそうよ」
えっ! 楊武は勢いよく顔をあげた。隈が目立つものの、いつもより目が生き生きとしている。
「み、見せてもらえるんでしょうか!?」
央晧の方へ勢いよく顔を向けると、楊武は弾んだ声を上げた。
こういう時だけ自分を頼りやがって……。
遼煌とばかり話す楊武に不貞腐れていたが、彼から頼られることに央晧が嬉しくないはずがなかった。
「う、うむ! 見たいのであれば宝物庫に入れるよう手配してやる」
央晧は腕を組み、わざとらしく、ふふんと鼻を鳴らした。
そんな弟の心中を理解している姉は、まだまだお子様の央晧に肩をすくめたが、一人の臣下に振り回される姿に、安堵もしていた。
完璧な世継ぎとして育てられ、貼り付けた笑顔で人形のように振る舞う朱 央晧を知っているからこそ、楊武に対し、表情豊かに振る舞う弟に人間味を感じずにはいられなかった。
「宦官たちも見たいって騒いでたから、早めに押さえないといつ見れるかわかんないわよ」
「このあとすぐに向かいますゆえ、ご安心を」
口を尖らせて言う央晧に遼煌は微笑んだ。今日は弟に対して収穫が多い。
「じゃあ、私はそろそろお暇するわ」
おもむろに立ち上がった遼煌は、博麗に視線を向けた。博麗は楊武の私室へ来た時にかぶっていた布をすぐさま主に巻き、後ろへ控える。
「李君、お話しできてよかったわ! また結果報告よろしくね」
楊武は寝台に正座をすると、姿勢を整えてかしずいた。
「お、お構いなしに申し訳ありませんでした」
「また来るわ!」
「え、それは……」
「冗談冗談! これ以上博麗の胃を潰すわけにはいかないもの」
本当に冗談だろうか、と博麗だけでなく央晧たちも思ったが、遼煌の機嫌がもっぱら良かったので、誰も口には出さなかった。
「あと央晧、あんた来た時からずっと“武”って呼んでるわよ。もう少し慎重にしなさい」
遼煌に指摘され、今になって自分の失態に気付く。
「李君の正体がばれて危険なのは李君なんだから」
「……姉上のおっしゃる通りです。身内と思い気が緩んでいました」
「まだまだ修行が足らんぞ、弟よ」
項垂れる央晧に、遼煌はぽんぽんと頭を撫でた。
その姿に「この人はどこまで事情を知っているのだろうか」と楊武は疑問を持った。
しかし、去り際に見せた博麗の申し訳なさそうな表情に気付き、彼は何かを察した。