弐:白昼の侵入者
数か月前に後宮へ戻った博麗が、央晧を訪ねたのは少し前に遡る。
「姉上が?」
机に向かい、書物を読んでいた央晧は顔を上げた。すぐ隣に控えていた側近・鄭 博文も、こめかみを押さえている。
「はい……。李梓殿の噂をどこからか聞いてこられたらしく、興味津々でして」
「あの人ならやりかねんな……」
博麗曰く、後宮でも噂となっている楊武らの竹簡発見について、央晧の異母姉である朱 遼煌が興味を示しているらしい。
楊武の話題が出たのが数日前。本日未明から遼煌の姿が後宮より消えたとのことだった。
このことを知っているのはごくわずかな遼煌付きの宮女のみで、心当たりのある博麗が公主探しを引き受けた、と言うのがこれまでの経緯だ。
元より、央晧と乳兄弟である博麗は、遼煌付きの宮女の中でも最も信頼されており、自然と彼女が探しに行く羽目になるのだが、自ら買って出ることによって、李梓の秘密を知らぬ宮女を巻き込まないように配慮していた。
「余が書に興味を持ったきっかけは姉上だしな。あの知識欲の塊なら躊躇いもなく後宮から抜け出すだろう」
まだ央晧が後宮で生活をしていた頃、寂しさを紛らわせるため、幼い彼へ書を与えたのは他でもない、遼煌であった。
央晧は旻皇后の宮にて、乳母である鄭氏らに育てられた。故に今でも遼煌や遼煌の母にあたる旻皇后からも可愛がられている。
それは十近く離れていることや、二人きりの異母姉弟と言うこともあったが、それ以前に遼煌が央晧を可愛がるのは、病弱だった実母・幸皇后の代理と言う立派な大義名分が存在していたからである。
可愛がる方法がいささか普通ではないかもしれないが。
「……博文」
「はい」
「武の部屋に向かうぞ」
博文が御意、と答えると同時に、央晧はため息をついて読みかけの書物を机の上に置いた。
幼い姿とは裏腹に、央晧のため息は大層苦労をしているのがひしひしと伝わった。
そして今、楊武は床に額を擦り付けて土下座をしている。
央晧が勢いよく入ってきた瞬間、女性も楊武も扉の方へ向いて停止した。
「姉上!」
焦りを見せた央晧が、大股でこちらに向かって来る。楊武はいまだに状況が理解できずに呆然と央晧と女性を見比べていた。
あねうえ。あねうえ。あね……?
何度か頭の中で反芻し、楊武は再度女性へ視線を移した。
「……!? こっ……!」
ようやく女性の正体に気づき、楊武は女性が触れていた両頬に手をあてると、椅子ごと後ろ向きに倒れた。
「なんだ、もう来たの」
「また斎宮を通って勝手に出てこられたんでしょう!?」
「気付かない宦官たちが悪いのよ」
央晧が遼煌を諫めるが、どこ吹く風と言った様子で小さく舌を出した。
女性は、後ろ向きに倒れたままの楊武、険しい表情の央晧、その後ろに控える主の行動に肝を冷やす博麗、そして楊武を憐れんでいるであろう博文へと順に目を向ける。
四人四様の姿に気をよくした女性――朱 遼煌は顔を覆っていた襟巻きを引き下げた。
続けて遼煌が口を開いたが、すかさず楊武が割り込んだ。
「まだ死にたくないです」
――冒頭に戻る。
異母姉弟は楊武の姿を見て、いがみあう気力を失った。顔を見合わせると、二人はため息をついて楊武を見た。
「まだ死なれてたまるか」
「そうよ。私が勝手に李君に触れたんだし」
早く表を上げて頂戴。遼煌が言うと、楊武はおそるおそる顔を上げた。
今、李君と呼ばれなかったか? と思ったが、気のせいだろうと背筋を伸ばした。
「初めまして、李君。第一公主の朱 遼煌です」
……聞き間違えではなかった。
微笑む遼煌を前に、楊武はこぼれ落ちるのではないかと思うほど大きく目を開かせた。
公主から君――先生に値する呼び名で呼ばれた楊武は、またしても床に額を擦り付けた。
察しのいい男は嫌いではない。異母弟が直々に師へ推薦しただけはある。
伸ばしたはずの背筋を限界まで丸めて土下座をする楊武を見て、遼煌はからからと笑っていた。
「姉上! これ以上、武を揶揄わないでください!」
央晧が楊武をかばって二人の間に入る。その様子を見た遼煌は眉を顰める。
頭に血が昇ると見境が無くなるのは今も変わらないのか。遼煌は内心でため息をついた。
いくら年が幼いとは言え、央晧は次の皇帝となる男である。今のようにすぐに感情的になってしまっては臣下がついてこない。いずれ孤立し、暴君になりかねない。
珍しく自分に抵抗してくる弟を、遼煌は冷めた目で見下ろした。
「随分、李君に肩入れしてるのねえ」
幼い頃より姉には勝てないと刷り込まれている央晧は、遼煌の鋭い目つきに腰が自然と引ける。しかし、ぎりぎりのところで踏みとどまり、姉をまっすぐ見つめ返した。
涙目になっている央晧を気にもせず遼煌は耳元でささやいた。
「落ち着きなさい、皇太子・央晧」
感情のままに動く央晧を咎める。次期皇帝と言う身分を忘れるな。遼煌は遠回しにそう伝える。
そして、ついでに頬を抓った。もちろん、遼煌が抓りたかっただけである。
央晧は遼煌の言わんとしていることに気付き、はっとする。しかし思いきり頬を抓られていたため、まぬけな表情を晒していた。
耳元から顔を離し、遼煌は央晧を真正面から見つめる。目でもう一度、冷静になれと釘を刺すと、土下座姿のまま顔だけをあげて呆然とする楊武が視界の端に入った。
異母弟に少なからず影響を与えたであろう男に感謝していた。目が合うと遼煌はほほ笑んだ。しかし、肩を震わせた楊武がどのような意味で笑みを受け取ったかは不明である。
「いつまでも感情的になるあんたが私に勝てるわけがないでしょう」
楊武への感謝と、央晧が冷静さを欠いてしまうのは別の話だ。
愉快と言わんばかりの表情で、遼煌はギリギリと抓る指を回し、痛みに耐える央晧を追い詰めた。
先ほどまでとは比べ物にならない痛みに、央晧は思わず声を上げた。
「い、いだだだだ」
以前、太子に頬を抓られたのはこの人の影響か……。
楊武は、央晧の中における姉の絶大な影響力を知った。
この日を境に、楊武の中での序列は、央晧を抜いて遼煌が頂点となった。