拾:”李梓“
「お前、今日から李梓と名乗れ」
央晧は部屋を訪ねて早々、楊武に向かって言い放った。
央晧は朝支度を終え、朝餉も食べ終えていたが、怪我人の楊武は遅めの朝食を迎えている最中であった。まだ誰も出仕すらしていない時間である。遅いと言っても宮城に仕える人間としては少し遅いだけで、央晧が訪ねる時間がいささか早すぎただけである。
「本当はもう少ししっかり考える予定だったんだがな。昨日王氏が余に接触してきた」
もはや央晧専用となりつつある龍が彫られた椅子へ腰かけ、肘をついて央晧は瞼を閉じた。
「王氏が、ですか?」
その名前に、心臓がびくりと跳ねた。楊武は口に運ぶ手前であった匙を下ろし、怪訝そうに央晧を見やった。
「ああ。もう師父の後任について噂を耳にしたらしい。流したのはこっちとは言え、動くのが早すぎる」
央晧は器用に片目だけ開き、舌打ちを鳴らした。主の癇癪を気にすることなく、博文は淡々と口を開いた。
「太子より知らせを受け、昨晩中に『李梓』殿の戸籍を作成いたしましたので、確認をお願いいたします」
寝台の目の前に立つと、博文が懐から三つ折り書面を取り出す。普段使いの目の粗い紙ではない、きめの細かい上質な紙に楊武の顔が引きつる。おそるおそる受け取ると、早速中身に目を通し始めた。
「こ、これを一晩で……」
戸籍表のひな型にそって書かれた内容は、昨日央晧が考えていた来歴が長々と羅列されていた。出身地から家族構成、学歴まで一から百まで嘘で固められた経歴に一通り目を通す。楊武は自分の経歴として何度も心の中で反芻する。
「た、太子中庶子!?」
自身……と言えるのかわからないが、李梓が与えられた地位に驚くあまり、紙を顔に近づけ声を荒げた。
「当たり前だろう? 六品以下では困る」
太子中庶子とは、簡単に言えば皇太子の側近中の側近である。
央晧があてがわれている英慶宮には博文を筆頭に皇太子府の官人や宦官が仕えている。長官は太子太傅――つまり孫師父がついていた役職であるが、現在は太子太傅が空席となっているため、第二席である王氏が筆頭にあたる。しかし、名誉職は兼官が可能なため、現場の先導は別の役人であることが多い。故に皇太子府の実質的な第一位は、博文が長年担っている。
また、太子中庶子は九品と呼ばれる官人の位は、中の中にあたる従五品にあたる。どうして楊武がそこまで驚いているかと言うと、従五品以上の一握りの官人しか皇帝への謁見が許されないからだ。
もし普通に彼が科挙試験を受験したところで、よっぽどの成績を収めない限り、一番下位にあたる従九品から出世街道がはじまる。つまり、いきなり皇帝に謁見を許された官品が与えられ、腰を抜かしかけていると言うわけだ。
「下手をすると武官の兄達より高い位に……」
「まあ、余の師父となるのだからな」
けろりと言ってのける央晧にめまいがした。兄弟たちが今日も汗水流して官位をあげている中、易々と皇帝へ謁見が許される地位につくことを、楊武は心の中で謝罪した。
楊武は質の良い紙へ視線を落とす。自身に演技の経験も無ければ、嘘が上手いわけでもない。一通りの略歴を覚えたとして、気付かれないように振る舞うのはいささか心配であった。
「後は……名前に反応できるか、心配ですね……」
「お前ならできるだろ」
あからさまに感情のこもっていない声援に、楊武だけでなく部屋の隅に控えている博文と博麗も苦笑した。
言い終えるなり、央晧は深く腰掛けていた浅く掛けなおす。略歴を覗き込むと、真摯な視線を楊武に向けた。
「楊はともかく梓と武は発音が近いだろう」
「梓と武。……それって古代の発音のお話ですか?」
楊武が首をかしげると、央晧は大きな口を開けて笑った。
「お、さすが理解が早いな! 師父の弟子♪」
先ほどの感情の乗っていない応援はどこにいったのか。楊武はうっかり愚痴をこぼしそうになったが、「はは……」と乾いた笑いでごまかした。
(こういうところは年相応なんだよな……)
大人びた発言をするかと思えば、駄々をこねることもある。実際、彼は幼子に分類される年齢なのだが、どうも無邪気に笑う姿は調子が狂う。
李梓と書かれた文字を撫でながら、楊武はぽつりとつぶやいた。
「梓と武……似てると言えば似てますが、音階もあってませんし果たして似ていると言えるのか……」
嘉で使用されている文字は、古代より変わらない。しかし発音は日々変化している。その発音の変遷は前代に作られた字典を引けばわかる。一瞬でそれを判断し、求められる返答ができる楊武は、流石書庫を丸暗記しているだけはある。
不満そうな表情で冷め切った粥を一口食べる楊武を見て、央晧は頬を膨らませた。
「余が直々に考えてやったのだぞ!」
央晧は椅子から立ち上がり、楊武の匙を持つ手を掴んだ。突然の横入りに楊武は目を丸くしたが、焦燥しているような央晧の表情に、口を噤んだ。
「……それに梓を使ったのは発音だけで選んだわけではない」
思いつめたような央晧が視線を逸らした。掴まれていた腕から力が抜ける。唇を噛みしめる姿を気にかけた楊武は顔を覗き込もうとしたが、央晧の表情はうつむいてしまったため見えなかった。
「今、木版印刷と言う技術が少しずつ流通し始めているのだろう。師父の最後の講義で教わった」
「はい」
「梓はその木版印刷に使う木と聞いた」
「……その通りです」
紙が発明されてから嘉国の文化は発展し、民の教育水準も大きく上がった。そして昨今、手書きで書き写すのではなく、木彫りした文字を墨で刷り上げる技術が発明され、同じ内容の書を誤字なく大量に作成できるようになった。文字を彫る版木を制作するのに時間がかかると言う課題もあるが、この発明は間違いなく文学の発展に貢献していた。
「お前は師父の功績を残すための梓だと、とっさに思いついた」
それだけだ。そう言うと、央晧はぶっきらぼうに視線を逸らした。
記憶力に定評のある楊武こそ、孫師父の遺志を継ぐことが出来る梓……つまり原版であると意味を込めたと言いたかったのだろう。央晧は央晧なりに考え、とっさにあの状況で字を選んだのだ。
予想外に配慮してつけられた名前に、楊武は何も言えなくなった。央晧が師父を慕っていたのは十分伝わっていたが、自分を「師の頭脳」と評価をしたうえで名付けるとは思いもしなかった。楊武は李梓と言う偽名に対し、喜びと畏敬、そして親しみを覚えた。
「いえ……拙こそ、無礼をお詫びいたします」
楊武は腕を掴まれていた小さい手を左手で包むと、央晧が顔を上げ、視線がかちあう。
「拙の為に太子が名前を考えてくださっただけでも身に余る思いです。そのうえ、拙にまつわる字を選んでいただき、感謝と言う言葉では言い表せません。ありがとうございます、太子」
元々下がり気味の眉がさらに垂れ下がる。楊武はへにゃりと擬音が似合う緩い笑みを浮かべた。
央晧は楊武の初めて見る心からの笑みに目を見開く。損得勘定のない感謝を一身に受けるむずがゆさに耐え切れず、視線を思い切り逸らした。
「わ、わかればいい」
まごまごと小さな声で央晧が答えると、年相応の姿に楊武はまた頬を緩めた。
「で、早速だが、明日にでもお前が倒れていた遺跡の調査に行ってもらう」
央晧は楊武に包まれていた手を名残惜しそうに離すと、咳払いをする。椅子に座りなおした央晧は、すっかり皇太子の顔へと戻っていた。
「え、あ、明日ですか?」
「怪我もある、長居はしなくていい。お前が調査に行ったと言う履歴を残すためだ」
両手をひじ置きにかけ、胸元で手を組むと、少しだけ前のめりになる。目を細め、眉をしかめる姿に、楊武の背筋も伸びる。
「直接お前と王氏が関わることはまだないと思うが……。気をつけろよ」
「御意」
姿勢を正して拱手する楊武を一瞥すると、央晧は博文を連れて退室した。楊武はぱたんと音を立てて閉じた扉をしばらく見つめてから、冷めた粥に手をつける。こうしてゆっくりと食事が出来るのも今日でおしまいだろう。博麗へ感謝を述べると、楊武としての最後の朝餉をいつもより時間をかけて食した。