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玖:書庫にて

 夜――宮城内の東に位置する書庫にて。

 手に持った筆を動かすわけでもなく、朱 央晧は白紙を見下ろしていた。机の上には紙を囲むように積み上げられた大量の書物がそびえる。唇を尖らせる姿は年相応で、傍から見えないのをいいことに、央晧は油断しきっていた。


「これは、これは。なんの御用でしょうか? 王氏」


 揺れる人影に気づき、猫を被った状態で顔を上げる。人払いはされているはずだが、[[rb:彼 > ・]]ほどの身分とあれば容易く入ることが可能だろう。内心舌打ちをしたかったが、ぐっと堪えていた。

 物陰から出てきた老臣――王氏は央晧の座る机に近づくと、こうべを垂れた。


「勉強熱心で何よりでございます。殿下」

「ええ。師父亡き今、科目によっては一人で学ばねばなりませんので」


 央晧は愛想よく笑うと、筆を置いた。この姿を楊武が見ていたら、腰を抜かして驚いていたに違いない。笑みを絶やさない央晧と同じく、向かい合う王氏もまた、貼り付けた笑みを浮かべていた。


「歴史に関して、新たな師をお迎えになるとお聞きしましたが?」


 顔は笑っているが、瞳は見定めるような鋭い光を放つ。


「おや、耳が早いですね。市井で有名な学者を試しに招くことになりました」


 視線に気づかないふりをしながら、央晧はわざとらしく目を丸くした。


(わざと流したに決まっているだろうが)


 すぐに王氏の耳に入るよう、あえて噂話の好きな官人や女官たちに話していた。おかげで予定よりも早く王氏が接触した。どんな質問をされたとしても、今ぼろを出すわけにはいかない。央晧はひきつる口角を懸命に吊り上げた。

 どうかこの話題が早く終わってくれ。央晧の願いもむなしく、王氏は目を細め「ほう?」とつぶやいた。


「市井から、ですか。僭越ながら、立場上、臣も存じ上げている場合がありますので差し支えなければ名前をうかがっても?」


 そうきたか。央晧は心の中で悪態をついた。市井と言えば逃げられると考えていたが、やはり一筋縄ではいかなかった。


「えーっと……」


 子供らしく覚え書きを探すふりをして名前を考える。今しがた読んでいた前代の系譜で見かけた字と、咄嗟に思いついた孫師父にまつわる文字を組み合わせ、その名を読み上げた。


李梓(りし)、ですね」

「はて、聞かない名前ですな」


 それはそうだろう。今考えたのだからな。央晧は悪態を付きつつも笑顔は崩さない。たとえ背中に冷や汗が伝っていたとしても、だ。

 一度口に出してみれば、すらすらと設定が降りてくる。悩んでいたのが嘘みたいに、央晧は言葉を続けた。


「なんでも発掘調査で功績をあげた方だそうですよ。実地での講義も予定しているとか」


 本宮はほとんど宮城を出たことがないので、ぜひ実現してほしいですね。

 実地については実現するかしないかは、この際問題ではない。少しでもはったりを利かせるために詳細に内容を告げたまでだ。

 書物の暗がりで王氏の表情は見えないが、それはお互い様であった。たとえ央晧が温厚な声色でありながら、敵意丸出しの視線を向けていたとしても、見えていないだろう。

 これ以上深追いは勘弁してくれと祈る央晧をよそに、王氏がどこまで信じたかは不明である。ちらりと書物の隙間から顔を覗かせると、王氏はたっぷりと蓄えられた白髭を数回撫でていた。


「殿下は相変わらず歴史がお好きなようで何より。それでは、勉学に邪魔になりますゆえ、老臣は去りましょう。夜更かしはほどほどに」


 一瞬、顔を顰めていた気がするが気のせいだっただろうか。央晧の眉は力みそうになったが、なんとか笑顔を貼り付けた。

「ありがとうございます。王氏もお忙しいと思いますが早く寝てくださいね」と心にもない言葉でねぎらうと、王氏は踵を返して書庫を去った。

 燭台から伸びる長い影が遠ざかる。足音が聞こえなくなったのを確認し、央晧は息を吐き出した。空気が抜けたように背もたれへ寄りかかると、蝋燭の揺れる天井を仰いだ。


「……明日、どうやってあいつに話そうか」


 偽名を考えることは、いずれやらねばと思っていた。まさかこんなあてずっぽうな形で名前を決めることになるとは想像していなかったが。


(やはり、王氏は師父(せんせい)の後釜を狙っているのか)


 噂を流すなり、たった二日ほどで接触してくるとは思いもしなかった。

 王氏の国史編纂及び太子太傅への昇格は、王手がかかっていると言っても過言ではない。またいつ視察へ来るか分からない。早く楊武を仕官させなければ。央晧は気を引き締めると、背もたれから背中を離した。

 背筋を伸ばし、一呼吸つくと、楊武の偽名を紙に書き出した。


李 梓(り し)


 発掘調査の界隈は知名度を上げている新進気鋭の学者。その功績から皇太子の教育係の一人に選ばれる。主に歴史に関連する科目を担当。都近くの遺跡であれば実地授業を行い、遠方の場合は出土物を取り寄せて行う変わった教え方が定評となり、後に皇帝から国史編纂の勅命を賜ることとなる。

 頬杖をつきながら、央晧はさらさらと李梓の設定を書き連ねた。


「文字に書くだけであれば、こんなに簡単なのにな」


 王氏と入れ替わって入室した博文に、聞こえるか聞こえないかの小さな声でぽつりと呟く。軽く両頬を叩き、気持ちを切り替える。央晧は再び筆をとった。


「上奏しておいてくれますか?」


 書き終えた紙を三つ折りに畳むと、博文を呼びつける。傍に来た博文に対し、央晧はあえて猫を被って紙を渡した。


「……こちらは?」

「新しい太子中庶子(たいしちゅうしょし)の推薦です」


 博文は目を見開き、手元から主に目を移した。にっこりとよそ行き顔で笑う央晧は、それ以上何も言わない。


「李師父(しふ)を、なるべく早く正式師父(しふ)としてお迎えしたいので」


 主の意図を組んだのか、博文は拱手すると、すぐさま書庫を退出した。

 夜であろうと、あの上奏文は今すぐにでも[[rb:中書省 > ちゅうしょしょう]]にて審議され、明日の朝一番に皇帝に届くだろう。中書省は行政の中心であり、陰謀の中心とも言われている。過去にも中書省が作り上げた偽りの上奏文で詔が発せられ、意図的に消された官人はいくらでもいた。

 明日の昼には上奏文を皇帝へ上奏した者が尋ねてくると思うと気が重い。益のある上奏と分かれば、彼らは我先にやって来るだろう。父よりも年老いた文官たちの魂胆が明け透けな醜い姿を見るのは面倒だ。しかし、こちらもその出世欲を利用して楊武を早々に皇帝へ謁見ができる身分に仕立て上げるのだ。これぐらいは慣れている。

 央晧は大きく息を吐きだすと、再び椅子に力なくもたれかかった。博文が戻ってくるまでの間、目を閉じて明日の多忙を推測していた。


 嘘から出た実。今はまだその場しのぎのはったりでしかないが、李梓――もとい楊武の実績を積み上げていくのは、いずれ現実になる。

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