舞台裏
「あのね、永井さん。相談があるんだけど…」
演劇部の部長である福谷真希が、あたしにそう切り出したのは、6月始めのことだった。普段ハキハキと部員に指示を出す彼女からは到底想像もできないほど不安げな様子で。
「何、かな」
部長もあたしも同じ3年生だから、タメ口で話すのは自然だ。でも、部活中の彼女はどこか気を張っていて、同い年なのにそうじゃないみたいに見える。だからあたしも、つられてぎこちない返答をした。
「実は、斉木さんが、足を、骨折してしまって」
彼女もその情報を聞いたばかりなのだろうか、途切れ途切れにあたしにそう告げる彼女が動揺を隠しきれずにいる。
「えっ」
あたしも、部長と同じように驚きの声を上げずにはいられなかった。
斉木さんは、8月の全国大会で主役を務める予定の3年生。
その彼女が、足を骨折した。それが何を意味するのか、あたしにも容易に理解できた。
「私も今朝知ったの、全治二ヶ月だって…」
「全治二ヶ月?それって」
間に合わないじゃん、とあたしは部長に向かって放つ。
途端に部長が、ビクッと肩を震わせるのが分かった。あたしは自分が思わず責めるような口調になっていたことに気づく。
「ゴメン。でも、どうするの…?全国大会までちょうど二ヶ月じゃん。斉木さんがいないと、あたしたち発表できなくない?」
もちろん斉木さんの身体も心配だったけれど、多分今の部長の一番の懸念はそれだ。
「だからね、永井さんに、お願いしたくて」
「お願いって、何を?」
「斉木さんの代わりに、主役の練習をしてほしい。もし彼女が、本番までに復活しなかったときのために!」
言いにくいことを、本当に言いづらそうに口にした彼女は、あたしの目を見ていなかった。
あたしにとって、斉木梨乃は嫉妬の対象以外の何物でもない。
容姿端麗で、演技力もピカイチ。同じ役者志望で演劇部に入ったのに、3年間で天と地ほどの差がついてしまった。
彼女はいつも当然のように主役に選ばれる。
一方で、あたしはいつだって舞台裏にいる。
「主役じゃなくたって良いじゃん!重要な役は他にも色々あるんだから」
「永井さんには、主人公の親友役をやって欲しいの」
同期の子から、何度もそう言われた。でもあたしは、その全てを断った。自分がやりたくない役をやるぐらいなら、舞台裏で裏方の仕事をする方が全然マシだと思ったから。
―もしかしたら復帰できるかもしれないけど、その逆で復帰できなかった場合、主役がいないと困るでしょう?私は、斉木さんの代わりをできるの、永井さんだけだと思ってるの。だから、ね、お願い!
部長の、救いを求めるような瞳と懇願の言葉が、あたしの神経を逆撫でする。
代わり。
斉木さんの、代わり。
そんなの、そんなのそんなの。
引き受けたくないに、決まってるじゃないか。
「やりたくない。あたしは」
斉木さんの代わりなら、主役になんてなりたくない。
「そんな……」
分かりやすいほど部長のがっかりした声が、呪いのように、あたしの耳に残った。
「永井さんが、斉木さんを階段から突き落としたんだって」
斉木梨乃不在問題が解決しない中、どこからともなくそんな根も葉もない噂が流れ出した。
「永井さん、斉木さんのこと恨んでるみたいだったもんね」
「そうそう。演技力十分あるのに、斉木さんに勝てないからって他の役も降りたりしてさ」
「ほんと、嫉妬なんかしてみっともない。もうずっと裏方にいればいいじゃん」
部員の皆の声が、あたしを責める声が、練習後の暗い帰り道で前後左右から襲ってくる。でもあたしはそれで傷つくなんてことはなかった。
「ばっかじゃないの」
心の中でそう呟いて、あたしはその後も今まで通り、「裏方」の自分を貫いていた。
結局、斉木さんは全国大会の1週間前に復帰し大会本番の出番に間に合った。
「ほら、やっぱり」
あたしは、主役にならない。
主役はいつだって、カノジョだから。
「永井さん、色々迷惑かけて、ごめんね」
大会が終わった後の斉木さんの「ごめん」が、あたしには挑戦状みたいに聞こえた。
「別に」
あたしの舞台は、まだまだこれから。
今はまだ、裏方でいるんだ。
FIN