【黄金の卵を産む鶏の反乱】愛の妙薬
バレンタイン。全ての神の女王でもあるユノの祝日。リリカルをぶち壊すような甘さ漂う愛の祭典に彩られた世間のあざとさの中に青春は放り込まれていた。
是枝勘太郎は辟易と落胆を担ぎこんでいた。というのも目の前に差し出されたきらびやかにラッピングされた劇物のせいだった。
放課後、高校の校舎の屋上。クラスの、たいしてそんなに話したこともない、むしろ日頃は遠巻きにされている女子生徒から「ちょっといい?」と呼び出されてついて行った先には全く面識のない三人の女子グループの集団がいた。ご丁寧に寒空の下でも大丈夫なようにコートやマフラーを装着して勘太郎を待ち構えていたのだ。
勘太郎は身震いした。そうと分かれば彼もジャケットの一枚くらいは着こんできたのだが生憎行先は告げられていなかったし、何よりも彼を震え上がらせたのは二月の寒さではなく女子生徒達の妙にぎらついた空気のせいだ。
「きた!」
「え……どうしよう、本当に渡すの?」
「当たり前じゃん。うちらがついてるんだから頑張って!」
額を突き合わせ遠慮も配慮もない丸聞こえのおしゃべりに勘太郎は回れ右したくなった。いや、しかけたのだが彼を連れてきたクラスメートの無言の圧力にそれを阻まれ売られた仔牛よろしく彼女らの舞台に泣く泣くあがるしか術はなかった。
「是枝君連れてきたよ」
クラスメートの女子が友人達に「どうだ」と言わんばかりの得意満面で胸を張った。見ればわかるだろうに彼女達は「おおっ」と小さな歓声を上げる。その中の一人は勘太郎の顔をみるなり鼻も頬も耳も真っ赤に染めあげでもじもじと身をくねらせた。心なしか目元が潤んでいる。
彼女の手の中にはリボンやレースで彩られた包装容器。明らかにお手製でデコレーションしましたと言わんばかりの装飾過多なそれを目にして勘太郎は驚いた。
「あ、あの!」
女の子が声を上げた。意外なほどの張り上げられたそれに勘太郎の身体がビクつく。
「あの、コ……コレどうぞ!」
両手を目一杯伸ばして差し出されたそれに勘太郎の口元がひくつき思わずクラスメートに顔を向けたが彼女は期待の籠った眼差しで勘太郎に受け取るよう促すだけだった。
その他の二名もまた同じような視線を勘太郎に向けていた。ただ一人チョコレートを渡してくる彼女だけは視線を下にしている。
「いや、あの」
我ながら情けない声が出たと思った。彼女達の間では勘太郎がコレを受け取ることは決定事項なのだろう。好意があるなしのハナシとは無関係に、彼女達はこの場でカップルが出来ればそれに越したことはないと思っているだろうし最悪でも勘太郎が「ありがとう」と言って受け取るということを信じて疑っていないようだった。
(ていうか、誰? この子)
記憶を手繰っても全く接点がない。春から入学し、一年遅れで晴れて高校生となった勘太郎はその容姿(金髪に無数のピアス)と入学早々に起こした喧嘩、何よりヤクザ一家の子供だということが広くしれてしまっていたので彼に近づこうとする人間はほとんどいなかった。
「大丈夫」
狼狽をみせる勘太郎にクラスメートの女子が助け舟を出すかのように言った。
「あたしら別に是枝くんがヤクザとかそういうの気にしないから」
泥船の方がマシだった。彼女達は要するに勘太郎が目の前に差し出されたソレに手を伸ばさないのは自身の境遇にいささかも彼女達を巻き込まないようにする為だという善意と解釈していたようだった。そんなことはちっともまるで一抹の思案も勘太郎にはないというのに。
チョコを差し出す女子が友人の言葉に励まされたように声を上げた。
「あ、あたし、是枝くんが優しいの知ってるからっ! 皆が言うようなおっかないヒトじゃないって……文化祭で、不審者から助けてくれたし……そ、その時からずっと、あの……」
そこまで言って彼女は口をつぐんだ。取り巻き達はこれで決まりだと言わんばかりに無言で色めきたった。勘太郎は天を仰ぎたい気分に駆られた。
秋の文化祭での不審者の一件、あれは彼の友人にして恩人にして恋しい人を狙った一波乱であった。校内での現代魔法使いバトルとなった珍事は表向きでは異常不審者の奇行として処理されている。けして不良と真面目ちゃんが青春するフラグではない筈だったのに、どういうワケかイベントが発生してしまった。
「気にすることねーから」
チョコレートの発生理由に至った勘太郎はこの場をやり過ごすことに決めた。
「あんなん、虫に刺されたとでも思って忘れちまいな」
むしろ忘れて欲しい。勘太郎と彼の周囲にいる『特定の人間』からすると払拭したい失敗だった。汚点は今も残ったままだ。
「是枝くんて彼女いるの?」
チョコレートちゃんを挟んで右隣の女子がいつまでも受け取らない勘太郎にしびれを切らして口撃に出た。
「扇田さんと付き合ってる?」
「なんでそんなことあんたらに言わなきゃなんねーの?」
気の利いた返しではなかった。しかし彼女の質問は勘太郎の繊細な問題に土足で入ってきているようなものだったから仕方がない。
その場を漂っていた甘い、浮ついた期待に満ちていた空気が一気に険悪なモノになった。
「関係なくないし」
クラスメートの女子が鋭い声で言った。
「ハッキリしてくんない」
「そうだよ」
「ああ?」
思わず、本当に思わず勘太郎の生来の粗暴さが零れた。女の子達は途端に怯えたように揃って身を竦ませた。
付き合っていられないとばかりに勘太郎は舌打ちした後でピンクのラッピングが震えていることに気が付いた。勘太郎に腹を立てている女の子達の中にあって、そのチョコレートはずっと真っ直ぐ向けられていた。
友人達の掌返しのような態度に怯えながらいまだに差し出されているソレに勘太郎は勇敢さを認めると手を伸ばした。
『女に恥をかかせるな』
今は亡き、それでも色褪せない師匠の教えだった。
手から離れたチョコレートに当人がようやく顔をあげた。
可愛らしい娘だった。薄く色づいた頬も、年頃らしく背伸びした化粧も十人いれば十人が「可愛い」というだろう。
それでも勘太郎の中にいる『彼女』を揺るがすことは出来ない。
チョコレートの彼女は息を飲んでまあるい目をこれでもかと見開いた。勘太郎は思わず笑ってしまった。
「なんだよ、くれんだろ?」
口角を挙げたある種の悪戯を企てたような笑みで言った。
彼の師匠によく似た笑みだった。
正面玄関、生徒用の下駄箱の前で待っていた桃花は近づいてくる足音に顔をあげた。
「あ、勘ちゃん終わった」
「すいません、遅くなりました」
申し訳ないと頭を下げる勘太郎に桃花が気にするなと笑った。
「綺輝は?」
「お泊りの準備するからって先に帰ったよ」
「あいつ……! あれほど桃花さん一人にすんなって言ったのに」
勘太郎が顔を歪めた。
「さっきまで清隆くんが一緒にいてくれたから大丈夫だよ」
「キヨが?」
桃花のハトコで勘太郎と綺輝とは従兄弟弟子にあたる玉村清隆。紆余曲折あり、なんの因果か同じ高校の同級生になった。高校生活とそれにまつわる色々なきっかけを経て、彼らは最初の出会いとはまた違った関係を築いていた。
二人は学校を後にして寒空に下へ出た。空方らは粉雪がふわふわと舞い世界にほんの少しの白をまぶす。
今日は放課後製菓の材料を買うのだ。休日にかかるバレンタインの為に今夜は綺輝も泊りで菓子作りをする。勘太郎も夕食に当然の如く参加予定だ。
「是枝親分さんって甘いの好き?」
「桃花さんからもらえりゃなんでもいいんじゃないすか。てか、別にあんな爺さんにやらんでも……」
「お母さんが毎年渡していたから」
「ああ……」
桃花の言葉に勘太郎は去年までの事を思い出した。毎年既製品のそれでもわざわざ自分にと用意されたソレを勘太郎の祖父は年甲斐もなく喜んでいた。
「いつもお返しがどうのとか言って大変でしたよ」
「お母さんそれ狙いだったのだよ」
三月のホワイトデーに蟹やら和牛が自宅に届くのを見越して桃花の母、晶子は先行投資だと言っていたのを思い出して桃花は呆れて笑った。
「桃花さんは黒瑪さんにチョコ渡すんですか?」
自然な態を装って勘太郎は尋ねた。お世話になっているのだから桃花が黒瑪にチョコレートを渡すのは何も不自然なことではなかったがその本意の程が勘太郎には気掛かりだった。
「え? まさか、時哉さんお店で一杯もらってくるもん」
いっそ清々しい程バッサリと桃花は言い捨てた。(黒瑪は駅前の商業ビルの占い館で雇われ占い師として生計を立てていた)
「昨日なんて紙袋一杯持って帰って来たし、時哉さんの部屋チョコで埋まってるよ」
高校入学の春から同居を始めた保護者はチョコレートの山を「本命以外どうでもいい」という理由で差出人も確かめず最初は捨てていた。見かねた桃花が窘めたのはバレンタインの五日前からだ。
桃花の言葉に勘太郎はホッと肩を落とした。
「今日の夕飯なんですか?」
「から揚げ。生姜醤油味とカレー味」
「よっし!」
思わずガッツポーズをとった。
そうだ。甘いチョコレートよりも桃花が作るご飯のおかずが自分には性にあっている。
勘太郎はほんの少しむず痒い気持ちでいた。彼の普段は空っぽの学生鞄がいつもよりほんの少し重たいのが後ろめたかった。
「俺は食う、ニワトリ一羽分食いますよ」
「ちょっやめて私達の分無くなっちゃうから」
声を上げて桃花は笑うと「そうだ」と思い出したように鞄を漁った。
「これ、どうぞ」
桃花が勘太郎に渡したのは簡易に包装されたチョコレートスコーンだった。
勘太郎はポカンと口を開ける。条件反射で受け取ったそれをみて目を瞬かせた。
「え? これ」
「昨夜練習で作った余りなんだけどね、綺輝ちゃんや時哉さんには内緒だよ?」
しーっと人差し指を立てる桃花。勘太郎の顔に熱が燈った。
「え、なんっ……俺だけ?」
「うん」
当然だというように桃花は頷くと、声のトーンを抑えて言った。
「勘ちゃんに恋人が出来ても紹介しないでね」
勘太郎の心臓が飛び跳ねた。狼狽した彼に構わず桃花は続ける。
「ヤキモチ焼いちゃうと思うから」
寂しそうに桃花は笑った。その笑顔には覚えがあった。勘太郎の師匠、桃花の母親を亡くした時に見せた笑顔だった。
「勘ちゃんの邪魔したくないし彼女さんにも嫌われたくないから」
「……余計な心配ですよ」
勘太郎は苦笑してみせた。
「俺の彼女が桃花さん嫌うとかありえねーから」
「えー、でも私がヤキモチ妬いちゃうかもしれないじゃん」
「それもねーから」
「言いきるなあ」
「鏡見てむかついてるようなもんですよ」
勘太郎の言葉の意味を捉えあぐねて桃花は小首を傾げた。その仕草に勘太郎の胸元が愛しさが込み上げてきた。
もうしばらくは、この心地の良い距離にいたい。彼女が居もしない存在に妬けてしまうような気安い距離に。
学生鞄の中の存在が一層勇敢に思えた。
三月、勘太郎は名前すら聞き忘れてしまった彼の人に礼節を持って会いに行こう。
自分にできない一歩を踏み出した人へのせめてもの誠意だと勘太郎は思った。
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