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【冬籠り】壱琉、見合いする

番外編

 


「ちょっと来てくれないか!」


 そう言われても困る。なにせ今。仕事中なのだ。

 柊はそう言いたかった。言えばよかったと後悔している。

 なぜ言わなかったのかというと、相手が誰であろう彼の上司の上司のそのまた上司の……とにかく職場で一番偉い【王様】、という立場の人であったからだ。

 突然にして現れたのも、困ると言えなかった理由の一つだ。


 

 昼食を終え、昼の城門守衛任務に就く前の点呼を始めようとしていた十六小隊の兵士たちは、一斉に用具棚に注目する。

 我らが国王陛下、(ここの)(かみ)穂積(ほづみ)が先述した台詞を叫びながら、城門の兵士の詰め所の用具棚から現れたからだ。


 最初に自分を取り戻したのは(かい)小隊長だ。

「事件ですか事故ですか?」

「戦争だよ貝小隊長!」

 穂積は青筋を立てて語気を強めると柊に顔を向けた

「我が家の危機だ!」

「ならご一家で解決してください」

 柊はそれを言うので精一杯だった。

 ロットと灯寄(ひより)相済(あいすみ)埼屋(さきや)が反射的に怒りの視線を柊に投げたのが分かった。

「陛下! 及ばずながら自分にできることはあるでしょうか?!」

 柊を押しのけ相済が名乗りを上げる。

「肉弾戦には自信があります!」

「僕も!」

 灯寄が声を裏返しながら続く。

「陛下の為ならばどんなことでもします!」

「自分もいつでも戦う準備は出来ています」

 埼屋だ。

 柊はこの場から逃げようとした。

 なにか、第六感的なものが彼にそうしろと警告していた。義でつながった兄弟たちの報せかもしれない。

 しかし柊は逃げられなかった、

 ロットに羽交い絞めにされていたからだ。

「放せロット!」

「う・る・せ・い! 往生しやがれ!」

「ろくなことじゃない! 絶対ろくなことじゃないぞ! 壱琉がしょうもないこと言い出すときとそっくり同じ顔してる!」

「アヌイが壱琉を見合いさせようとしているんだよ!」

 この世の破滅を宣告するかのように穂積が言った。

「まだ十二歳なのに! 葉加は全っ然反対してくれないし、弦上は乗り気だし、もう誰も味方がいないんだ!」

 詰め所の中がぽかんと静まり返る。

 灯寄とロットだけがぎくりと柊の反応を気にした。

 柊は――

「……………………はああぁ?」

 と明らかに馬鹿にしたように返答した。

「くだらない。いくらでもすればいいじゃないで……ぐっ!」

 最後まで柊は言うことが出来なかった。

 羽交い絞めにしていたロットが彼のみぞおちに膝蹴りしたからだ。

「連れてってください。もしくはどこかに埋めてください」

「ありがとう借りていくよ!」

 うずくまる柊の首根っこを穂積はわし掴むと、もう片方の手で用具棚の扉をピッピッと指先でなぞった。

 銀の光が扉を結び、国王は来たとき同様そこから門番を一人連れて出ていった。


 光が消えると用具棚は元の掃除道具を入れる木棚に戻った。







「さあ第二戦だ!」

 執務室の王の机の引き戸から穂積は柊を引きずりながら意気揚々と這い出た。

 容赦なく急所を蹴りこまれ、ズキズキと痛む腹部を抑えながら柊は部屋の中を見回した。

 国政の最深部である王の執務室には、幼児ほどの背丈に青銅色のフードを真深く被り魔法の大本を持った精霊宰相アヌイ、近衛隊長・老神、そして柊の師であり玖蘭国将軍の弦上が雁首揃えて待っていた。

 柊は話が比較的通じるだろう老神近衛隊長に顔を向け懇願する。

「仕事に戻りたいのですが」

「気持ちはわかる」

 老神が深々とため息をつきつつ、諦めろと態度で示した。

「さあこれで!」

 穂積は柊を執務室にある長椅子に座らせると自分もその隣にどかりと腰を落とした。

「さっきよりずっと手ごわくなったぞアヌイ」

「戻ってよいぞ、姫の臣下」

 精霊宰相は霧の彼方から聞こえてくるような神秘深い声で答える。

「仕事があろう」

「ではそうさせていただきま……」

「駄目だよ!」

 腰を浮かせた柊を穂積は押しとどめ、精霊宰相に不敵に笑う。

「アヌイ、お前が柊くんを苦手なことを僕は知っているんだ。ふふふ、僕が知っていることをお前は知らなかっただろう。そしてお前が知らないということを僕は知っていてお前は知らないのさ」

「もう少し意味のある言葉を話せ、王よ」

「とにかくこの二人は壱琉の見合いに反対だから! そうだよね柊くん!!」

「えぇ~……」

 がしりっと肩を掴んで離さない穂積に対し、柊は勘弁してほしい、そう心の底から思った。

 アヌイは少し考えをめぐらせるように沈黙すると「そうか」とこぼした。

「なぜ反対なのか根拠が……」

「これはさっきも言ったけど!」

 柊への質問を穂積は大声で遮った。

「まだ十二歳の子に恋愛は早いと思う!」

「母親は反対していない」

 壱琉の母であり、穂積の妻である葉加は見合いには消極的ながら賛成の意志を既に出している。

「お前自身、十五で身持ちを固めたに察すると、ヒトの子のそれに年齢は関係ないと……」

「僕と葉加はいいんだよ!」

 思い切り自分を棚に上げる穂積は弦上将軍に顔を向けた。

「ほら、弦上。弟子が反対しているよ。師匠としてここは弟子の意志を尊重するべきだと僕は思う」

「恐れながら陛下」

 まったく恐れていない様子で弦上将軍は快活に笑った。

「婚期は早ければ早いほどよいと思いますぞ。この年まで独り身の儂が言うのだから間違いなく」

 熟年期に入った弦上の言葉は説得力があった。そして弟子にニヤっと笑って言った。

「お前も早く結婚せんとわしのようになるぞ。剣が伴侶になりたくなかろう」

「師匠、それは自慢ですよ」

 柊は乾いた笑いで口元を引くつかせる。今朝の鍛錬でも勝てなかったのだ。

 苛々と落ち着かない穂積が虫を払うように手を動かして老神近衛隊長に矛を向ける。

「老神、キミはどう思う?」

「陛下、わたしは陛下の護衛としてこの場にいるだけですので……しいて言うならば、壱琉さまのご婚約で国体が安定するならばそれは私としても喜ばしい……」

「キミ個人の意見なんてどうでもいい!」

 個人的意見を求めたのは自分にもかかわらず穂積は怒りをあらわにした。

「ようするに、僕は恋愛の自由がないことに怒っているんだよ。誰かが決めた相手と結婚なんてしてほしくない。恋とは革命的でどこまでも冒険心溢れるものでなければならない」

「見合いをした相手と必ずしも結婚しろとは言っていない」

 意図が違うのだと宰相は首を横に振る。

「姫が気に入らなければ断ればよい。なにも望まぬ相手と無理に一緒になれと言っているのではない」

「なら見合いの必要なんてない」

 ほらみろ、と鼻息を荒くする穂積にアヌイは大本の角を突きつける。

「この春から姫は高等教育学校へ進学だ。あそこへはいままでとは違う種類の子供たちが入ってくる。貴族の子供や野心をもった子供だ。万が一、姫がそういった()()にたぶらかされたらどうする。例えば今年は玖下(くげ)の子供たちが入ってくるぞ」

 暗に一人ではない、と警告する。

「姫の入学に合わせ数年遅れて受験した子供もいると私の耳にも入ってきた」

「言いたいことは分かった!」

 パンッと穂積は膝を叩くと青い目をぎらつかせる。

「壱琉に近づいたら面倒くさいことになる子の入学を取り消そう」

「できもしないことを……」

「できる。王立高等教育学校だ、しかも僕が作った学校だよ。僕が気に入らない子は全員敷居を跨がせない」

「他ならぬお前が制約に盛り込んだだろう。合格者の入学に子供の出自は問わない。学問を望むものがあれば、いかなる障害からも学校は全力で生徒を教え守ると」

「くっそおおおおお、若気の至りがこんなときに!」

「だから姫が好みそうな()()を先に見繕っておくのだ。恋人がいればいらぬ政争が今後おきぬ。お前も安心だろう」

「壱琉に恋人なんていらない!」

 駄々っ子よろしく自分の膝を両手でたたいて穂積はわめく。

「大きくなったら僕のお嫁さんになるって約束したんだ!」

「発言がねつ造されております」

 弦上将軍が慇懃に口をはさんだ。

「『お母さんのようなお嫁さんになる』、とはおっしゃいましたが陛下の、とは一言もありませんでした」

 しかも聞いていたのは小さいころママゴトに付き合った弦上だ。

 おもちゃの鍋に木の実を入れて『おかあさんごっこ』を楽しんでいた時に話してくれたのを弦上が穂積に教えてやったに過ぎない。

 穂積は口をひん曲げて言った。 

「とにかく恋愛は許可しない」

「自由恋愛ではなかったか?」

 アヌイは呆れた。さっきと言っていることが違う。

「とにかく聞け。いまのところ姫の相手にどうかと思っている筆頭はユリウス・ノイシュヴァン王子、お前も気に入っているだろう」

 隣国の王太子殿下の名前に穂積は少し落ち着きを取り戻した。身体の力を抜いて足を組むとくつろぐように頬杖をついて笑う。

「アヌイ、お前も人間ってやつがそろそろわかってきていると思ったけどまったくだね。あの二人は恋愛関係にはならない。断言できる」

「仲は良いようにみえたが……」

「だからさ。この世の最後の二人になっても恋や愛は生まれないよ。僕は王様だからわかる。まあ……どっちかの国が傾いて滅びそうってなったら政略結婚くらいはするかもだけど」

「では(みさご)・タクナはどうだ?」

 アヌイの口から出た名前に穂積は首をかしげる

「……どこかで聞いたことがある子だ」

「先日まで姫と同じ初等教育学校に通っていた。高等教育学校にも上位の成績で合格している。優秀だぞ」

「お待ちください宰相閣下」

 苦々しく老神近衛隊長が口を開いた。

「その少年は……王太子近衛からは不評です」

 言い辛そうな老神に穂積は不振に眉をひそめる。娘の交友関係に王太子近衛が名指しで(いな)を出すのは珍しいことだったからだ。

 穂積は「なぜ?」という言葉を飲み込んだ。疑問を口にしてアヌイに少年がなぜ壱琉の見合い相手に良いのか説く機会を与える気はなかった。

「近衛隊長が言うのだから間違いないだろうね」

「では日月(たちもり)灯寄(ひより)

 意外な人間の名前がアヌイから出た。

 一番驚いたのは柊だった。思わず腰を浮かした彼に穂積は尋ねた。

「知りあい?」

「同室です。さっき詰め所にもいました」

日月(たちもり)ってあの日月家のことかい? 東の山奥の領地に引っ込んでいる」

「惣領息子です」

 弦上が言った。

「親が何度か壁門守衛をやめさせるよう儂に泣きついてきております」

「貴族だろう? その跡取りがなんで僕の足元にいるんだ」

 胡散臭そうに穂積は顔をゆがめる。

 その様子に柊は慌てて言葉をつむぐ。

「いいやつです。王立軍に入りたくて家出同然で入隊したと以前聞きました。あいつの主は陛下です。陛下のお気持ちに反するようなことは絶対しません。姫と見合いをしろと言われても絶対断ります。なんだったら見合い相手が城門に現れたら槍を向けるヤツです。」

「友達なのかい?」

 おやっと眉を上げた穂積は、先ほどまでの不機嫌を少し薄め、どこか嬉しそうにしている。

 柊は言い淀み、考え、言葉を探した。

「と、友達の定義が……わかりません……俺が、あいつの友達と名乗るのがふさわしいかどうか」

 友達と名乗りたいけれど、その許可をもらっていない。

「教えてあげよう、僕にも定義はわからない。けどあいつとあいつは間違いなく僕の友達だよ」

 アヌイと弦上を顎でしゃくって穂積は肩をすくめる。二人とも呆れたような、しょうがないなというような苦笑を見せていた。アヌイ宰相の顔はフードの下で見えなかったが、それでも雰囲気でそうだとわかる。

「その友の言うことを聞いたらどうだ」

「友達だからこそ間違ったことを言い出したら対立するのさ」

 そういうものかとアヌイは考えた。

「では私も友のために鬼となろう」

 アヌイはとうとう攻勢に出ることにした。

「たとえばだ、お前達夫婦が言う自由恋愛とやらで姫が相手を連れてきたとしよう」

「万が一そんなことがあったら僕はそこの窓から身投げする。会うぐらいなら死を選ぶ」

「窓をふさいでおきます」

 老神近衛隊長が眉間を揉みしだきながら大きくため息をつく。その横でアヌイが続けた。

「姫が連れてきた相手はお前と同い年だ」

「ぶっ殺してやる!!」

 とっくにかなぐり捨てていた王様の仮面を穂積はさらに叩き割った。

「絶対許さない。絶対だ。壱琉が泣こうが喚こうがそんな男はこの世から消してやる。そうだろ弦上」

 将軍はうーん、と唸ると苦味を耐えるように笑った。

「確かに、それはちと反対ですな」

「そうならないためにも、こちらで良さそうなのをあらかじめ見つけておけばよい。姫はその中から選べばよい」

 そう言うとアヌイは手をちょいちょい、とふった。

 戸棚の中から羊皮紙と骨で出来た万年筆が出てきて宰相の目線の高さで止まり、勝手に羊皮紙に文字を書きだした。

「王と同年代は不可。よし、どんどん条件を言え」

 アヌイは燃えていた。

 こうともなれば穂積がぐうの音も出ない男を必ず見つけてやろうと決意する。

「ああそうかい、そう言うことなら……」

 まったく引く様子を見せないアヌイに穂積は全面的に立ち向かうことにした。

「まずどこかの王族関係はダメ。これは絶対。あと国内の貴族もダメ。家とか国じゃなく、壱琉個人を一番に大切にできない男は論外だ。学生か、もしくは定職についていて、転職歴は五回以内。無職は絶対だめ。離婚歴があれば即不可、子供がいるのもちょっと問題になるからそれもダメだ。収入は平均より上であること。借金を抱えているのも却下。身元が分からないのも却下。賭博の趣味もよくない。あと心身共に健康で、体力気力充分であること」

 どこぞの就職採用条件のようなことまで骨の万年筆はガリガリと記載していく。

 アヌイは柊に尋ねる。

「シュッテパルムはあるか?」

「ないです」

「あるよ!」

 ウンザリするように返答する柊の脇腹を穂積は肘で小突き、まくしたてる。

「身長が壱琉より高いこと、太りすぎていない……とにかく誰が見ても男前って感じがいい。あと嫌味な男は嫌だ。あんまり頭が悪いのも壱琉に釣り合わないし、口から先に生まれてきたようなおしゃべりな男もダメ。いや、でも……無口すぎるのもつまらないな。ちゃんと自分の考えを言えないとお互い苦労するしね」

「お前が喋りすぎる男を批判するときが来るとは思わなかったぞ」

 アヌイの皮肉を穂積は無視した。

「相手の実家は疎遠か、無いほうがいいな。嫁姑問題で苦労するだろう? あと将来的に婿養子に来られないのもダメだ。もちろん葉加が気に入らない相手もダメだね」

 羊皮紙はその面積を文字で埋め尽くし始めていた。

 精霊宰相は穂積以上に柊を機にかけているようだった。アヌイは柊をフードの下からじっと見つめて探るように尋ねる。

「まだ一つも答えていないな」

「……ありませんので」

「お前個人の意見でなくともよい。例えば想像するに、お前の周囲がどのような者を嫌がるかでもいい」

 柊はアヌイが何を気にしているのかわかった。宰相は柊の向こうに彼の義兄弟たち。壱琉に従い契約する精霊たちをみているのだ。

 穂積が割って入る。

「見た目がチャラチャラしているのもダメだ、清潔感のない野郎が昔から僕は嫌いだし、礼儀や常識もないやつはもっと嫌いだ。とにかく一番は挨拶だね、それが出来ないと話にならない。食べ物の好き嫌いがあって皿の上のものを残す奴も軽蔑する」

 娘の恋人の条件でなく、だんだんと自分が嫌いな男像になってきている。長年一緒にいるアヌイはそろそろだと感づいていた。

 穂積は片手で髪の毛をガシガシと掻く。

「あとー……それから~……僕より弱い男は認めない!」

 稀代の魔法使いである男はそう叫ぶと長椅子の背もたれに身体をそらせて呻き声をあげた。アヌイが満足したように万年筆を止める。

「よし、尽きたな」

「うあああああ、条件が出てこないいいいい! あるはずなのに言葉にならないぃぃ!!」

 弦上将軍がため息交じりに言った。

「陛下。正直、その条件をすべて超える男がおったら、こちらからお願いする高水準ですぞ」

 大金積み上げて歓迎しなければならない。

 余計な野心がなく、下心を持っていない男が、果たして純粋に壱琉に好意を持ってくれるか非常に難しいのが現実だ。

 弦上将軍は若い姫の将来を少なからず憂いながら自分の弟子に言った。

「お前も言っておけ。もう一つくらい増えてもなんともなかろう」

「本当にないんです」

 柊は隣で手負いの獣のように呻く穂積から離れると付き合っていられないとばかりに立ち上がる。

 弦上は弟子の頑なさに苦笑せざるを得なかった。

「仕事に戻ってもいいでしょうか?」

 もう帰ると行動で示す柊にダメ押しでアヌイが最後に尋ねる。

「本当にないな? いいな? よく考えろ」

 特に姫の影の中からどんな文句が飛び出すのか。

 あとあとの対立を考えてアヌイは柊の意見に慎重だった。

 門番は本当の本当に嫌でたまらない、という態度を隠さなかった。じたばたもがく穂積を苦々しく眺める。

「ないです」

 柊は遠慮もなにもなくはっきりと答えた。

「誰が来ても絶対に嫌なので。たとえこの世で誰も叶わない最高の男が来ても嫌です」


 壱琉がその男を誰よりも愛していても知ったことじゃない。


「だから条件もなにもありません。嫌なものは嫌です」


 見合い?

 勝手にすればいい。

 恋人?

 いくらでも作ればいい。


 それと柊個人の感情は別だ。



「失礼します」

 貴人に向けた礼を軍人らしいきっちりとした仕草で行った柊はそれ以上一瞬でもそこにいたくないというように執務室から退出した。

 あとに残された穂積は感心したように、ほーっと息をはいた。

 その手があったかと目からうろこが落ちる。

「僕も、彼と同じのに変更で」

「もう遅い」





 執務室から出て、苛立たしくも仕事場に戻ろうと廊下を歩いていると、慣れ親しんだ声が彼を呼んだ。

「柊? どうしたの?!」

 意外な人間を意外な場所で見つけた壱琉は嬉しいような心配なような少し複雑な表情を見せて駆け寄ってきた。

「なんでここにい……なにかあった? すごい顔してるよ」

「どんな?」

(にが)()っぱいのにものすごく甘かった感じのモノを食べちゃった顔」

 バチンっと柊は自分で自分の顔を叩いた。思わず壱琉の悲鳴が上がる。

「ひ、ひいらっ……!」

 柊は自分の顔を叩いた手で壱琉の顔を覆った。

「ちょっと今見るな」

「うぇ? なんっ、どうしたの? なんでここにいるの? 仕事は?」

 顔半分を覆う柊の手を掴みながら壱琉は尋ねると彼は大きくため息をついた。

「今日はもうなにもしたくなくなった」

「えええ?!」

 珍しい過ぎる言葉に壱琉は心底驚いた。

 柊は仕事が好きだ、たぶん三度のご飯より仕事が大好きだ。と壱琉は勝手に思っている。その彼から、こんな言葉が出る日がくるなんて……。

「お父さんでしょ?」

 壱琉は怒りをにじませる。

「なにか言われたんだ、じゃなきゃこんなつまらないところにいないもん。なに言われたの?」

「お前こそここでなにしてるんだ?」

「夕飯はなにがいいか聞きに来たんだよ。でもそんなのどうでもいい、ちょっと待っててすぐに……うわっ」

 柊は壱琉の頭を痛くないよう、しかしがっしりと掴み歩きだした。

「ちょっ、放し……」

「アヌイ宰相がお前の見合いを画策しているぞ」

「え?」

「陛下はすごい怒りっぷりだった」

「……へ、へ~」

 壱琉の身体から怒気が消えたのがわかって柊は手を外した。彼女は興味津々についてくる。

「柊は? 怒った?」

「別に」

 そっけない返事に壱琉はニヤける。

「照れてる」

「照れていない」

「嘘。私わかるもん」

 えへへ、と嬉しそうに笑う壱琉に柊は舌打ちした。とても珍しいことだった。

「……見合いするのか?」

「えー、どうしよっかなー?」

「してもいい」

 静かに柊は言った。それでもその灰色の目にはほの暗い色が宿っている。彼は壱琉に顔を向けることなく続ける。

「してもいいけど、俺にその話は絶対するなよ。相手の話も一切するな」

「一緒にお見合い場所に行こうよ」

「絶対嫌だ」

 すねるように言った柊に壱琉は機嫌よく笑う。

 しないよ、とは言わないでおいた。

 もう少し、彼のすねた顔をみていたかったから。


 昼の太陽が窓から二人を照らす。

 温かい、浮ついた春の陽気だった。












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