【冬籠り】「魔が払いの冬木」
それは冬の寒さが和らぎ、陽射しが温かくなってきた早春のことだった。
「シュッテパルム! これやるよ」
朝の訓練を終え、食堂に向かおうとした兵舎内で、柊・シュッテパルムは呼ばれるまま振り返った。
呼び止めたのは壁門守衛団の兵士の1人。
特にこれといって親しい間柄ではない男がぞんざいに手に持っていたものを投げ渡してきたのだ。
魚の乾物だった。
「じゃ、よろしく!」
「は?」
パンパン、と柊に向け手を打ち鳴らした兵士はそう言ってニコニコと去っていった。
隣を歩いていたロッド・マイルズが柊の手の中に納まる干からびた魚を見て首を傾げた。
「なになに、どした」
「もらった」
「なんで魚? お前またなんかやらかした?」
「身に覚えがない」
「また果たし状でも入ってんじゃねえの?」
相手は壁門守衛団兵だ、常日頃いがみ合っている近衛でもなければ個人的に一方的な敵愾心を向けられているアネの一族でもない。
試しに柊は魚を齧ってみた、硬すぎて噛み千切れないこれに果たし状を仕込むことは不可能だ。
「美味い?」
「これといって」
あまり味がしない。
口に入れた手前、そしてこれから仕事なので柊はさっさと食べてしまおうとガリガリと魚の乾物を食べながら更衣室へ行くと、そこでも声をかけられた。
「おっ、来た来た。柊、これから昼番だっだな!」
狼のアネの兵士がニコニコと取り出したのは、口に入れてやっとのこと半分を噛み終えたばかりの魚の乾物とそっくり同じものだった。
「頼んだぞ」
「なにを?」
狼のアネの彼は有無を言わせずニコニコと魚を柊に押しつけるとパンパンと手を打ち鳴らし、そのまま昼食へと軽い足取りで去っていった。
「え、また同じヤツじゃん、なんで?」
「知らん、やる」
「硬った……っまっず!! うわ、俺無理。お前よく食えるな」
「道に生えた草よりは美味い」
かつて暮らしていた場所を追われ、あてもなく彷徨っていたときの食事情に比べれば、問題にもならない味だ。
口から魚の尻尾を生やしながら門兵の鎧を身にまとい仕事場へ向かう途中、すれ違った兵士たちからジロジロと好奇の視線を浴びたが、数人が魚をかじる柊に気が付くと「あっ!」と顔を輝かせ手を二回打ち鳴らした。
「お前本当に心当たりねえの?」
「ない」
「恨みかってない? スカしてるとか、顔がムカつくとかなにかしらあんだろ。不味い不可思議な魚を押し付けられる理由が」
「俺が自分の顔を気に入っていると思うなよ」
柊にはどうすることもできない。
生来の容姿、とは一度自身の色を失った身としては言えなかったが、顔形を変えられるものなら自分から申し出たいほどだった。姿形から置いてきた過去にたどりつかれるのがなによりの懸念なのだから。
不思議に思いながら王城正門の兵士の詰め所へ行くと、先に着いていた同室の日月・灯寄が魚の干物の二匹目をなんとかして食べきろうとしている柊に顔をしかめた。
「仕事中におやつを食べないでください」
「やる」
そろそろ顎が疲れてきた柊は食べかけの魚を年下の先輩兵士に突き出した。灯寄の眉間に皺が寄る。
「いりません、僕は誇り高き真面目な門番ですから」
城門を死地とした友人たちに見捨てられ、最早食べるよりは歯で乾物を削っていくという虚無に近い作業になりつつあったところに、埼屋と相済がやってきた。
年嵩の同僚は魚に悪戦苦闘している柊相手に大爆笑した。
「おまっ、ぶふっ……どし、はははははははは!」
「灯寄が渡したのか?」
相済が巨躯を丸めて大笑いする横で、埼屋は口を手で押さえながらプルプルと震えた。
「違います」
「それ、煮て戻して食べるやつだぞ、頭を取らないと苦みとえぐみが酷くてな。子供の頃苦手だった」
「道理でマズいわけだ」
のほほんと肩をすくめるロッドに柊は魚を投げつけてやりたくなった。
「兵舎ですれ違った連中に押し付けられた、なんだこれ」
「門番で柊……なるほど確かにピッタリだ」
「意味がわからない」
「魔除けだよ、俺の田舎じゃこの時期になると家の玄関先に鰯の頭を柊の枝に刺して飾るんだ。海が近かったから、ガキの頃は自分で捕った大物を飾って自慢したもんだ」
「あ! そういや去年もちんまりと飾ってたの見たな!」
「初めて聞きました。沿岸部独特の風習なんですかね」
「縁起いいじゃん! 柊、今日は魚咥えたまま立ってろよ」
「いやだ」
だがその拒否は無駄に終わる。仕事場にやってきた壁門守衛団第16小隊、貝小隊長が麻ひもでくくられた大量の鰯の干物を持ってやってきたからだ。
「親戚が王城に飾れとしつこく毎年送って寄こすが、今年からは快く受け取れるぞ」
正門に飾るのはそれ相応の手続きと儀式を経由した鰯でなければならない。田舎の庶民が手作りした魚の干物などもっての他だが――
上司が直属の部下に分け与えるともなれば全く問題にはならない。
貝小隊長は鰯を柊に掛けると二度手を打ち鳴らした。
「今日一日、それを肩から掛けることを許可する」
「いやです」
「隊長命令だ」
「横暴です」
「若者よ、軍とは横暴で理不尽なるものだ。心を殺せ」
かくして魚と共に門番の任についた柊の噂は昼を過ぎた頃にはあっという間に広がって「その手があったか!」と代わる代わる魚を持った連中がやってきて実家や親戚から届いた魚を飾っていった。
「漁師の親父が喜ぶぞ、自分の捕った魚が王門に飾られたって手紙で教えてやらないと」
「まさかウチの実家みたいな田舎の小さな魚屋から献上品を出せる日がくるとなぁ! 末代まで自慢できる」
「槍の代わりにコレを持て! 鰯などという弱い魚で王の城が守れるものか! 我が郷里の伝統はヤガラウオ! これで悪鬼も邪気もひと突きよ!! がはははは!」
全員が、我らが王の正門を守る王太子姫殿下に選ばれた魔が払いの名を持つ一の剣に魔除けを飾れたと、誉と笑いを得て帰っていった。
誰も疑っていなかった。
誰もが正しい行いとしていると確信していた。
これは良いことでしかない、と盲目だった。
――誰も、断れる立場にない下っ端兵士に臭い干からびた魚を押し付けて帰っていっただけとは気が付かなった。
「心を、心を殺せ……何も感じるな、俺は置き物、心を殺せ」
「怖ぇって、こういうのは吹っ切れて楽しんだもん勝ちなんだから気楽に立ってようぜ」
「じゃあひとつ首から下げてくれ」
「絶対ヤダ」
柊はヤガラでロッドの身体をメッタ刺しにした。ロッドは笑っただけだった。ヤガラは攻撃能力が低い。
「断りゃいいのに」
「…………できるわけがない」
「なんで?」
ヤガラを収め、柊はギリギリと臍を噛む。
「親兄弟が喜ぶと……それは、俺がっていうよりは、俺を通して壱琉を見ているからで、だから……」
俺個人のことはともかく、壱琉のことは皆好きでいて欲しい。
そんな殊勝なことを小さくブツブツと零すものだから、灯寄は苦笑しながら解決策を提示した。
「今日だけ改名したらどうでしょう?」
「魚の死体で圧死してもそれだけは絶対にしない、魂が朽ち果てるまで俺は柊・シュッテパルムで在り続ける」
この名を失うくらいなら、魚の干物がなんだというのだ。
槍だろうがヤガラだろうが、彼の主君が住まう場所に不当に立ち入る者を阻んでやる。
門前こそが門番の死せる場所ならば、心だってこの場で殺してみせよう。
(壱琉が初等教育学校を卒業していてよかった)
幸いなことに学校から帰ってきた彼女にこの姿を見られることはない。
高等学校の進学準備の休暇中の為に私室に篭って勉強しているはずだ。
(こんなところを見られたら……)
ふわりと何かが前髪を揺らした。
トン、とほとんど重さのない何かが足の甲に乗る。
視線を下げるとそこには、長い耳と長い尻尾を垂らしたウサギに似た精霊がいた。
血の気が一気に引いていく。
「ら、月兎……」
「ひーらぎー!」
王城のほうから春の日差しのような、夏の草原に吹く風のような少女の声が名前を呼ぶ。
ぎ、ぎぎぎぎ、と柊は錆びた鉄扉のように首をそちらに動かした。
黒い髪を靡かせた彼の最愛の幼い主が、煌めく笑顔を紅潮させ、魚のアネの従僕の腕を引きながら駆けてくる。
「私も飾りたーい!」
「やめろ!! くるな!!!」
柊・シュッテパルムはこの日、二度目の持ち場放棄を謀った。
春の大嵐がやってくる、ほんの少し前の笑い話だった。




