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虎男

作者: 高沢りえ

虎男とらおとこ




 李徴はめざめた。鼻がむずがゆい。嚔が出そうだったが、引っ込んだ。

 白い蝶が眼先を飛んでいく。ここは、どこだ。野原で大の字になって寝転んでいた。実に気持ちが良い。背中を青草に擦りつけた。

 笑い声が聞こえる。ああ、里が近いのだ。「目覚めている」うちにここを去らねば。そう思いながら、とろとろと微睡む。

 人として生まれた者が、なにゆえに虎として生きねばならぬのか。運命が残酷なのか。それとも天の懲らしめなのか。考えてもわからぬことは、もはやわからぬこととして、放っておくしかない。

 諦めは李徴をしばし泣かせたが、じきにこぼす涙も尽きた。

 呆然として、腹が空けばなにものかを喰らい、満たされれば眠る。

 その繰り返しだ。

 突然、腹に重石が乗せられたような衝撃があった。見れば、人間の子どもである。豊頬のなかなかに愛らしい少年だ。どこかで見た覚えがあるが、しかと思い出せぬ。

 ねぼすけ。早く起きよと、少年は母のように李徴を叱った。李徴は虎らしく唸ってみせた。たちまちおそれて逃げ出すに相違ない。しかし少年はにこにこと笑むのをやめず、李徴の耳をそっと撫でた。身軽く飛び起き、数歩向こうで来いと招く。迷いながらも花垣をすり抜けて行くと、泉があった。一糸まとわぬ乙女らが、水を掛け合い笑い声をあげている。さっき聞こえたのは、この嬌声だったのだ。

 李徴を見るやいなや、彼女らは声を上げた。虎を見て怖じたのではない。恥じらいまじりの驚喜の声だ。酔うている。みな。桃花に混じり、酒香がきこえた。広々と果てのない、どうだ、まるごと酒池なのだ。これは夢だ。桃源郷とはこのことだ。まさに。

 飢えを覚えたのは、突然のことだった。まろやかな影に向かって李徴は駆けだした。虎としてか、人としてか。きゃあ、とはしゃぐ声がする。やわらかな白腕に抱き留められ、かぐわしい酒を浴び、ぐわぐわとたらふく飲み込み、李徴はしたたかに酔った。


 目が覚めたのは、暗闇の中であった。

 李徴李徴と、呼ぶ声がある。

 投げ出された白い足、唾液でぬれた固い胸乳。李徴はよろりと身を起こし、黒い褥のような夜の中を歩き出した。

 あの晩のことを思い出す。誰かが闇の向こうから李徴を呼んだのだ。虫の声かと疑った。はじめのうちは。気になってたまらずに、駆けだしていくと、いつの間にか李徴は人から虎に変じていたのである。

 虎になった経緯をこれまで何度も李徴は考えてみた。そうせずにはいられなかった。

 李徴は、頬髯をひと撫でし、自嘲した。

 真の玉なれば、土中にあれど誰かが掘り起こしたはずだ。自らにめざましい才能の認められぬこと。その事実から眼を背けていたある男は、食い扶持を取るに足らぬ賎職から得つつ、鄙の地にこもり、鬱々として夢ばかりを見た。妻子をずいぶん前から孤独のうちにおきざりにしたことも、気づかぬままに。いや、知っていて、見て見ぬ振りを続けてきたのだ。

 罪の意識というほどではない。わずかな未練だ。

 残された妻は、子は。どうしている。職を辞していた間、妻の背は痩せ、青白い頬が幽霊のようだと思ったこともある。装飾品や着物を売り、しのいだ日々も李徴はさほど深刻にはとらえてはなかった。詩こそがすべてだったのである。妻の縁者ともいつしか疎遠になったが、恨み言一つ口にせず、妻はほほえんでいたものだ。

 己は道を誤ったのか?

 生きながら畜生に落ちるような罪を犯したか。

 いや、まさか。それほどの大罪なものか。

 大官というものはたいてい、財を増やすことに汲々とし、民を省みぬ。上に諂い下を嘲弄し、ぶくぶくと肥え太ること限りなく、それを恥じることもない。彼らにこそ、虎の皮が相応しいのではないか。

 そういえば、己はいつからこうして歩いているのだ。尾が飛び回る蝿をたたく。どこに向かっている。行くあてなどない。呼ぶ声がとぎれたら己は虎に戻ってしまう。おおい。李徴は叫んだ。その声は暗闇に吸い込まれ、消えていった。

 地獄に落ちるのだろう。己は、褒められるようなことは何もできなかった。結局は。いや、待て。褒めて欲しいと、いつ己は願った。


 はたと続く。終わりと思うても、その先がある。李徴は揺れていた。あたりは奇妙に明るい。眩しくて眼を細めた。大勢の人間が四角い箱に詰め込まれている。見たことのない衣をまとった男女が、不機嫌に限りなく近い無表情でぼうと立ち尽くしている。おい。ここはどこだと女にたずねると、耳をつんざくような悲鳴を上げた。箱の口が開き、李徴はたちまち押し出された。蹴られ、殴られた。虎だろうと多勢には勝てぬ。ここが山野ならば人間など喰い散らしてやるのに。

 追い立てられた李徴は、つめたい階段を駆け上った。

 ここは、どこだ。

 山はない。月も見えぬ。空まで届かんばかりの奇妙な柱が林立している。夜空は灰色をかむったようだ。地獄がこれほど光に満ちていようとは。悲鳴が李徴をはっとさせた。身を翻し、走る。ただひたすらに。冷たい地を駆ける。ここには土がない。どこまで行っても、平坦な石の地面である。水のない河を光をまき散らしながら行き過ぎる鉄馬は、引き手もないまま猛然と行き交っている。李徴は悲鳴と怒号を後にしながら、駆けた。身を隠すところはどこにもない。小さな叢のひとつもここにはないのだ。すべて見あらわされる。追いつめられる。隠しておきたかった羞恥心も、ささやかな盾にすぎなかった自尊心すらも奪われる。弾劾の声が押し寄せてくる。

 おまえはなぜここにいる。迷いこんだのか、無様にも。そう問う声が冷たい光とともに降り注いだ。眼を焼かれたような痛みに、李徴はうずくまった。

 ここに李徴を知る者はいない。懐かしむ者も、嘲る者も哀れむ者も。夢想したことがある。すべての縁を絶ち切り、孤独に陥りたいと、そう願ったのだ。浮き世の柵を躍り越し、人の理から自由な者になりたい。

 己は願ったのだ。だからこそ。恨む心も、もはやない。涙がこぼれたが、これは身の上を悲しんで流す涙ではなかった。心底、身内が気の毒だったのだ。気の毒だと思える己がいとしい。どこまでも自分。李徴はいっそ愉快な気さえした。

 己はこういう男だ。仕方ないのだ。あきらめるほかない。己は虎なのだ。なるべくしてこうなった。認めよう。認めたぞ。

 李徴は吠えた。


 李徴李徴。呼び声に目を開けると、広々とした白い箱の中にいた。男がいる。若い進士だ。器の半分を自信で満たし、もう半分を羞恥心で満たした男、これは、李徴ではないか。冷たい目がきれいだと、ほめそやされていた頃。女たちを馬鹿にしながら、李徴は本を読むふりをして品定めをしていた。のっぺりとしたつまらぬ顔の中に、あやまって紛れ込んだような、美しい人を見つけたとき胸が高鳴ったのだ。目が合うと恥じらって背を向けた。細い首筋におちた後れ毛がかわいいと、そう思った。

 おい、李徴。詩など、やらねば良かったな。

 男は言った。おまえはすこぶる頭がよい。詩作に入れ込まなければ、道をあやまらずにすんだのに。馬鹿だな。

 李徴の胸に怒りがわいた。何を謗られようと、詩人として大成せんと夢見たことを笑われたくはない。他でもない、己の顔をした奴などに。李徴を眺めて、男は唇を歪めるようにして笑った。李徴、すまない、怒らせたいのじゃない。本当の本当に、心よりそう思うから言うのだ。なあ、李徴。おまえは思い出せるか。初めて詩を書いた日のこと。勿論、忘れるはずがないよな。おまえは、詩伯に憧れたわけではない。ただ、軽い気持ちで一つしたためた。それがはじめだったろう。すると、あの人が褒めてくれた。好きだと言ってくれた。春の美しさが目に見えるようだと、笑ってくれたのだ。

 李徴。困った奴だ。おまえの詩は、なんてつまらぬ駄作だったことか。おまえの詩は、先人のまねごとだ。形だけをまね、上辺だけを飾る。そうしたものだ。

 浅はかなその娘は、のちにおまえの妻になった。つまり、妻がすべての発端とは言えないだろうか。おまえを畜生の身に堕落させたのは妻なのだよ。

 李徴は叫んだ。戻してくれ。己を地獄から救い出してくれ。男は李徴の耳をやさしく撫でた。よかろう。おまえがわたしの満足するような詩をあらわしたら、悪夢をさましてやろうではないか。

 李徴は夢中で記憶をかき回した。慌てるほどに、思い出せぬ。半分虎になりかけた頭は、ぼんやりとしていて焦りばかりが募る。ぎゅうと眼を閉じたとき、光が見えた。

 李徴は転げ出た。あまりに唐突で、頭がくらくらした。ようやく起きあがった李徴は、空を見上げた。満月である。静かな山が地に横たわり、笹葉を風が揺らす音だけが野に響いている。

 李徴は走り出した。あたたかな土を蹴るようにして、ひたすらに駆けた。懐かしい我が家に帰り着いた時には、疲れ切って、一度伏せれば立ち上がれぬだろうと思われた。帰ったとて、どうにもなるまいとわかっているのに。帰らずにはいられなかった。物陰からのぞき見るだけでいい。

 李徴は物音を聞いて、戸口に近づいた。話し声がしたのだ。たてつけの悪い粗末な戸は、中をのぞき込むに十分な隙間を生じさせていた。客がいる。ただの客ではない。妻をかき抱き、着物の裾をかき分け白い股をまさぐっている。それが故人だと気づいて、李徴は驚いた。驚きの後には、思いがけぬ嫉妬が起こり身を焼き焦がした。己はくれぐれも妻子を頼むと確かに言った。確かに。しかし、こうまで自由にして良いとは言っていない。厚かましいではないか。どんな顔で妻を手込めにしようと言うのだ。

 泣いている。穏やかな微笑をいつでも絶やさずにいた袁が、泣きながら李徴の妻を抱きしめていた。妻はおずおずと男の背に腕を回した。この瞬間こそ、酔いたかった。李徴は戸を破り、男を突き飛ばした。妻のじっとりとした肌を前脚で押さえつけると、李徴は名を呼んだ。何年ぶりかと思うほど、久方ぶりに。

 妻は凍りつき、胸乳をさらしたまま呼吸もせわしなく、ただ目をつぶってじっとしていた。息を殺している人の頬を、李徴は丁寧になめた。

 おびえているこの女は、どうしてこれほど美しいのか。己はどうして気づかなかったのか。愚かだ、愚か者。取り戻せぬとわかってから、気づくなど。

 李徴は白い胸に濡れた鼻をこすりつけた。通じるものなら、こう言いたい。断じて君のせいではない。虎の姿は、己の嵐のような胸の内をそっくりそのまま写したものなのだ。猛獣使いは欲望に首輪をつけて飼い慣らす。己の欲望はあまりに大きく、己自身醜悪なるものを見ずにすむようにかたく眼を閉じていたから、いっそう手に負えなかった。ゆえに、君を傷つけた。今なら、わかる。はっきりと。

「あなた」震える声が、そう呼んだ。次の瞬間、首がじゅうと熱くなり、はげしい痛みが襲ってきた。裸の男が手に刀を持ち、肩で息をしながら李徴をにらみつけている。袁。李徴は呼んだ。耳のあたりをざっくりと切りつけられ、李徴はどうっと土間に倒れ込んだ。

「虎め!」

 ああ、待ってくれ。何かをもう一つ忘れているような気がする。己の罪。己の浅ましい仕打ちをだ。

 李徴は暗闇に浮かび上がる妻の半身を、目に焼き付けんとした。あの日、君は褒めてくれた。春の歌がすばらしいと。己は、すぐに気づいた。君が褒めたのは、袁の作だった。春の野に遊ぶ乙女らを詩にしたためたのは、たしかに袁だ。しかし、己は黙っていた。袁が君を慕っていると知りながら、君に求婚し、自分の妻にした。知らぬふりで。


 美しいものだけを見ていたいと、己は願った。都合の良い夢ばかりを見たいと。それは不完全な美である。美の一面にすぎぬ。醜いものも描かねば、真の美しさは姿を見せてはくれない。

 己の詩の不完全なのは、まさに、そういうことではないのか。世の中を片方の眼でしか見ていなかったから。

 苔むした岩場からあふれる泉の水はうまかった。月に吠えるのは寂しくも爽快だった。小さな獣を喰らい、血塗れの口を水鏡に映して、悲鳴を上げた。そのあとは、変におかしく、転げ回って笑った。

 狂っているのか? 李徴だけが、たわけているのか。

 虎も、人も、大差ない。

 生というのは本来そうしたものだ。

 どんな美女も君子も、貪らねば死ぬ。貪って満たされて、だからこそ笑えもする。

 生き物とは、罪深い。いとおしく、おもしろいものだ。

 おや、なかなかよい詩が浮かんだ。残念なことだが、もう書き記す猶予はあるまい。ああ、惜しい。題もよいのが浮かんだというのに。

 ・・・・・・それだそれ!

 どこからか声が聞こえる。

 それがおまえの詩だよ、李徴。

 李徴を闇に招いた者は、いったい誰だ。

 誰でもよいか、今となっては。

 ただ一編、山月記なる詩を残し、あとは火にくべたって後悔はない。獣になった愚かな男が、なかなか楽しく地獄遊山した一部始終だ。思い出すだけで、頬がゆるむ。

 ああよい。よい。おれはこういうのが好きだ。

 李徴は満たされた心持ちで、あくびをした。

 眠い。くたびれた。今まで、走り通しだったから。

 じきに己は死ぬから、あとはよろしく頼むぞ故人よ。

 なんだ、もうよい、泣くな。無用な涙だ。

 どうか、己のことを許さずにいてくれ。

 自分勝手は、不治の病なのだ。おまえだからこそ、おれは故人と呼びたいのだ。ああ。殺されたとて。自業自得というもの。


 壊れた戸から差し込む月光は、瀕死の虎のつやつやとした毛皮を黄金のように光らせていた。(了) 

 

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