本当の悪。 1
一月二十日。校門に寄りかかって立つ人影。ボクは駆け足でそこに向かう。焦げ茶色の髪を一つに結び、肩甲骨の下あたりにまで垂らしたふわふわした雰囲気の女子生徒がいた。幼馴染にして親友という奴だ。
「日影ー! 遅いよー!」
「ゴメン、今日掃除当番だったんだ」
そんなのサボっちゃえばいいのに、と笑う彼女。しかし、課せられた義務は果たさなければならない。少し面倒くさがりで、少しくらいならとルールを破ってしまうこともある彼女と、ルールは絶対で違反は許さない、と豪語しているボクなのだが自然と馬が合った。
「今日、せっかくの部活休みなんでしょ? だったら有意義に使わないと」
「休みを謳歌するのは権利で、掃除をするのは義務だろう? だったらどっちを先にするかは決まりきってるじゃないか」
「あーはいはい。義務とか権利とか本当に固いねアンタは」
大仰にため息を吐く。それに対抗するようにボクも聞こえよがしに息を吐いた。これもいつものことだ。あまり問い詰めすぎると子供っぽい彼女はすぐに拗ねてしまう。
ボクの所属するソフトボール部は練習が厳しく、休みも少ない。だから週一の活動しかない手芸部の彼女と、寄り道をしながら下校する日など月に一回あればいい方だ。
「あ、駅前のコーヒーショップ行かない? 久しぶりだし私が奢ってあげるからさー」
「あそこに行くのは賛成だけど奢ってはくれなくていいよ。別にお金困ってないし」
ボクは彼女以外に友達がいない。昔から妙に固くて、それでいて喧嘩っ早くて、友達ができなかった。ルールに甘い人には厳しすぎると非難の眼を向けられ、真面目で大人しい人には怯えの視線を投げられてきた。
それは中学時代だけで済んだ――と思っていたのだが、悪評は近所に広まっていて、高校に入ってからもそんな生活は続いていた。
でも、彼女だけは違った。幼いころから一緒に居て、よく公園で遊んだし、ボクの家でお泊りもした。そんな関係も中学までかと思っていたが、志望校も同じで、一緒に受験を突破した。クラスは彼女が一組、ボクが六組と別々になってしまったが、時間さえ合えばよく遊ぶ仲だ。
彼女は本当に人がいい。少しズボラで面倒臭がりなのが玉に瑕だが、誰にも負けない思いやりを持っていると断言できる。恥ずかしながら少し荒れた中学時代を過ごしてきたボクの話をまともに聞いてくれたのは彼女だけだ。――というか話せたのが彼女だけだったというべきか。
この性格で活動の少ない部ともなればクラスの友人からの誘いも多いのだろう。ボクと一緒に居てくれるというのはそれを蹴っているということだ。その人達には申し訳なく思ってしまう。ボクといる時にクラスメイトの話をしないのは気を使ってくれているのだろう。
「日影ー。聞いてる?」
「え、ああ、ゴメン。何だっけ?」
コーヒーショップが行きつけとなっていて、落ち着ける場所のせいか。ついいらないことを考えてしまっていた。彼女はブラックコーヒーを一口飲むと、何度も言わせないでよと言いたげな表情で口を開いた。
「だから、これからどこに行くかって聞いたの。久しぶりにカラオケでも行く?」
「あ、あー、カラオケは勘弁してほしいかな?」
「日影音痴だもんね」
「はっきり言わないでよ……」
彼女と行きたい場所はたくさんあるが、唯一の行きたくない場所はカラオケだ。ボクは歌うのが嫌いで仕方ない。音楽の成績はいつも歌唱テストのせいで上がらなかった。
さて、これからについてカラオケ以外の場所を提案しなければならない。ならば、と一度も行ったことがない場所が頭を過る。
「あ、じゃあ君の家は? 未だに行ったことないんだけど」
「え、ウチはダメだよ! 今日お父さんいるし!」
残念。ボクの家で遊ぶことはあっても、彼女の家にお邪魔したことは一度もなかった。彼女の方から誘ってくることもなかったし、ボクが提案してみた時に限って、忙しいらしい父が休んでいたり、弟さんが大切なテストの前だったり、母が体調を崩していたりで、なかなかタイミングが合わない。
「うーん、じゃあ、近くにできた雑貨屋さん行ってみる? まだ行ったことはないんだけど」
彼女は少し思案を巡らせて違う場所を提案する。正直、ボクとしては彼女と居られればどこだっていい。
「うん、じゃあそこに行こうか」
飲みかけのカフェオレを一気飲みして席を立った。彼女もコーヒーをあおり、立ち上がる。そして、店を出て、目的地に向けて歩き出した。
一月二十一日。午前五時半。ボクは震えながら布団から這い出た。寒い。雪でも振っているんじゃないかと思ったが、外はまだ暗いまま。白い物が舞っているようには見えない。気温が低く、雪も多いこの地域ならば、降っていてもおかしくはない。今日は単に寒いだけのようだ。
自分で望んで部活動に参加しているとはいえ、こうも寒いと雪でも振って朝練が中止になればいいのに、と思うこともある。自分に対してだが、そのような考えを持ってしまうことに時折苛立ちを感じてしまう。
台所に降りると、すでに母が起きていて、朝食を作っていた。父の仕事も、兄と弟の登校時刻も早いため、母は毎日早起きだ。ボクに続いて、兄が起きてきた。弟の起床は後十五分くらいしてからだ。
ストーブの前を陣取る兄と手伝えと声を上げる母。日常だ。ボクは兄の代わりに母から受け取った朝食を並べながらそう思った。
ぱたぱたと少し軽い足音がする。中学二年の弟が起きたようだ。まだ成長期だからか、床の軋みは軽い。そのまま音は進み、カラカラと戸を開く音、硬い玄関の床に靴底が擦れる音が小さく聞こえる。そして、寝癖を付けて、新聞と白い封筒を持った弟が現れた。ポストの確認は昔から彼の仕事だ。
「新聞ありがとう。お父さんの所に置いておいて」
「おう」
「あら、なにその封筒」
「知らね。何か姉ちゃん宛てみたい」
母と弟のやり取りが耳に入る。朝食の手伝いをする手を止め、キッチンから顔を出すと、弟が投げるようにして白い封筒を寄越してきた。表に夜川日影様とだけ書かれていて、裏には何も書いてない。何だこれは?
「誰から?」
母の質問に自然と首が捻られる。
「さあ? 差出人の名前がない……」
えっ、と母は顔をしかめた。きっとボクもそんな顔になっているだろう。誰から送られてきたのか分からない手紙なんて気味が悪い。
「何? 何? もしかして不幸の手紙?」
面白そうだと言いたげな表情で寄ってくる弟。さすがに不幸の手紙はないだろう。漫画じゃないんだから。
「ひょっとして……ラブレター!?」
それよりは不幸の手紙の方がまだ可能性は高い。母の言葉を完全否定するのはどこか癪なので、やんわりとそれはないと告げようと言葉を選んでいると、兄がストーブの前から口を挟んできた。
「ラブレターなんて日影がもらうわけねーよ。きっと果たし状だぜ?」
「何でそうなるんだよ! 今時そんなのないって!」
「いやあ……そんだけ悪人みたいな顔してれば、どっかのヤンキーに後つけられて手紙入れられたとかもあり得るぜ?」
さらりと気にしていることを言われ、兄だが殴ってやりたくなる。だが、朝から兄妹喧嘩をするわけにもいかず、怒りを唾と共に飲みこんで喉を鳴らす。
「いや、兄貴もそっくりだろ! ボク達父さん似だし!」
弟だけは母さん似で丸っこい垂れ目だ。正直羨ましい。
「俺はいいんだよ。男だから」
あー寒っ、と会話を中断するように呟く兄にため息をつき、自分の分の朝食を手にすると、食卓に着いた。あの封筒は何が書かれたものが入っているか分からない。家族の前で開封するのは気が引ける。また後で開けよう。
兄弟も席につき、共に食事をとる。母はまだ寝ている父と朝食をとるため、まだ料理に手を付けず、ボクと兄の弁当を詰めている。
ふと時計を見ると、もう六時五分になる。十五分には家を出ないと朝練の準備に間に合わないというのに。ああ、この妙な手紙のせいだ。急いで残りのご飯をかきこみ、部屋へ戻った。封筒を机の上に放り、制服のセーラー服に袖を通す。あの手紙を開くのは帰ってからになりそうだ。
自転車を三十分程漕ぎ続け、高校に到着した――のだが、ボクと同じく朝練の準備に来たクラスメイト二人が顧問の先生と話をしている。校則上、自転車は押して駐輪場に入らないといけない。少し面倒に感じられたが、降りて手で押しながら三人の元へ挨拶に向かう。
「あ、日影さん、ヤバいよ」
「うん、今日朝練もナシで学校も休みになるって!」
「え、休み?」
ああ、とボクの言葉に反応した先生が、気まずそうに口を開く。何で部活の準備をしているはずの先生がここにいるかというと、その休みという連絡をボク達一年生に伝えるためだろう。
ソフトボール部では、伝統的に朝練も、放課後の練習も、一年生が開始三十分前から準備をすることになっている。きっと、朝練が始まってから全員にまとめて伝えるわけにはいかないような重要な話だ。
それは先生の普段より青い顔色からも分かる。
「実はな、うちの学校で自殺者が出た」
「……自殺!?」
ドクンと心臓が跳ねるような感触がした。人が死んだという事はそれだけ衝撃的だ。特別な特徴もない、普通の高校だったはずだ。そこで自殺者が出た、などという非日常極まりないことを耳にすれば、それが誰だか分からなかったとはいえ、驚きはする。
「え、誰が、何で死んだんですか!?」
先生は少し押し黙った後、ゆっくりと口を開いた。
「理由は分かっていない。遺書は無かったらしい。さっき警察を呼んで……多分そろそろ来るだろうな、うん」
「先生、結局誰が死んだんですか? 理由は分からなくても誰が死んだのかはわかりますよね?」
同級生が先生の言葉の穴を突いた。『どうして』は分からなくても『誰』は分かっているようだ。さっきは反射的に聞いてしまったが、その答えは聞きたいような、聞きたくないような嫌な気分になる。沈黙すらも陰鬱だ。
先生はちらっとボクを見ると、少し髭の目立つ顎に手を当て、下を向いた。ボクが関係しているのか……?
「先生? 言えないんですか? もしかしてぐちゃぐちゃで誰か分からないとか?」
やめてよ、と彼女の友人が不謹慎な言葉を吐いた友人の肩を叩く。だが、先生はその言葉に首を振った。「そういう訳じゃないんだが……」という呟きをした後、彼は顔をこちらに向けた。
「夜川、お前は早く帰りなさい。……二人もだ。そろそろ連絡網で休みだという話が回り始めるから。それに対応できるように待機しなさい」
ボクだけに帰宅を促した後、取ってつけたような「二人もだ」という言葉。先程の視線と言い、おかしい。もしかして、ボクの関係ある人だという事か?
もし死んだのが部活の先輩や同級生だったら、三人とも同じ扱いで帰宅命令をしただろう。という事は部活関係ではない。二人は同じクラスだ。生徒じゃなくて普段教わっている先生、という事でもなさそうだ。つまり、ボク個人の人間関係となる。だが、そんなもの一人しかいない。
一瞬にして背筋が冷えた感覚がした。確かめないと。ボクの知り合いとか、先生の勘違いだって確かめないといけない。
「夜川……? ほら、顔色悪いぞ、帰りなさい。な?」
ボクの顔を覗き込むように頭を下げた先生を押しのけ、敷地内に飛び込んだ。誰もいない校内を走る。履いているのがローファーだからか、普段と走っている感覚が違う。邪魔だ。校舎の角を曲がったところで、靴を脱ぎすてた。
気温が低いせいで一瞬で足の指先の体温が奪われた。しかし、そんなことを気にしている暇はない。足の裏に小石がめり込む感触を無視して、駆ける。
「夜川! 戻れ!」
急に先生の声が聞こえた。練習中の怒号とは違い、どこか上擦った声だ。振り返ると、急速に先生の姿が近くなっていく。ポケットを探ると。硬い物が手に触れた。携帯だ。それを先生に向けて投げつけ、先程よりも足に力を入れた。先生の慌てる声。それでも振り返らずに足を進めた。
校舎を回っても、それらしいものはどこにもない。飛び降りではないようだ。先生の姿がないことを確認すると、校舎の玄関から中に入った。
一階、二階、三階、廊下を走って教室の中を覗き込みながら校舎を上っていく。どこにも死体なんてない。ほら、見間違いじゃないか。
そして四階。着いた途端。話し声がした。気が付けば心臓が爆発しそうだ。朝から走ったからではない。部活では普段から走らされているし、疲れたからではない。恐怖からか、不安からかは分からないが、とにかく爆発してしまいそうなんだ。
真偽を確かめるまで後少しだ。声の聞こえた教室まで走り、勢いに任せてドアを開け、中に飛び込んだ。中にあったのは大人二、生徒一。先生たちの声が聞こえた気がしたが、そんなもの耳には入らない。床に横たわる生徒に視線は固定された。
首に巻きつけられたロープ。方法は首つりだろう。広がった焦げ茶色の髪は普段と何の変りもない。それは髪だけではない。表情も、普段と同じ柔らかい笑みだった。苦しいはずの死に方なのに、いつも通りの顔で凍り付いていた。
ふと聞こえた叫び声が自分のものだと気が付いたのは、視界が暗転して、病院で目が覚めてしばらくした後だった。
二月五日。彼女が居なくなってから、学校にも行かず、ただ自室に引き籠っていた。彼女のいない世界に出る勇気がどうしても持てない。もちろんこんなことをしていてはいけないことは分かっているのだけど。
いい加減学校に戻るべきだ。どうにか力を振り絞り、机に向かう。ふと机の上にあったものが目に入った。あの日、家のポストに入っていたらしい差出人のない封筒。気を紛らわすことができるかもしれない。もし嫌がらせか何かでも、一瞬だけでも彼女のこと考えずに済むかもしれない。
封筒を手にとり、鋏で上部を細く切る。細長い紙切れが机に落ちた。中に入っていた紙は授業で使うようなルーズリーフで、便箋ではない。折りたたまれた紙を開いた瞬間、目に飛び込んだのは見慣れた文字だった。
心臓が暴れる。一旦目を閉じ、息を吸い込む。どうして彼女の筆跡なんだ。もしかして、死ぬ前にボクの家のポストに入れたのか? 意を決して目を開いた。もしそうだとしたら、彼女の言葉を見届けなければならない。
夜川日影様
あなたがこの手紙を読んでいる時、私はもう死んでいるでしょう。なんてベタな書き出しでごめんね? でもこれは本当の事です。私はこれから学校で自殺をします。方法は今のところ首つりにしようかなって。けど、日影に見られることはないから何でもいいかな。
私がこの遺書を書いたのは、私の本当のことを日影に知ってもらいたかったからです。
実は、私はクラスに友達がいませんでした。それどころかイジメもされてしました。理由はよくわからないんだけど、クラスの中心の子と喧嘩したからじゃないかな。喧嘩って言っても口喧嘩だけどね。
部活に行っても、クラスの子たちのせいで誰も話しかけてくれないし、教室と同じようなこともされました。担任の先生も顧問の先生も見て見ぬふりだったので、余計に辛くなりました。
クラスに友達ができなくてさみしいって思ってたのに、家では相変わらずお父さんもお母さんもすぐに叩いてくるから話せないし、弟もいつも見下して? くるので家族には相談できませんでした。
本当は日影にも言おうかなと思ったことがあります。でも、もし日影が心配してくれて、私のクラスに来てくれるようになったら、一緒に嫌がらせをされるかもしれない。それにそっちのクラスで友達を作るチャンスも奪っちゃうかなーと思って辞めました。
っていう理由もあるんだけどさ、本当は言い出しにくくて話しそびれちゃった。もし助けてって言えたら何か変わるのかなって思ったけど、それで一人きりの友達が変わっちゃうのが怖くて。
話を戻すね。そんな生活をしてたら疲れちゃった。だから、もう死んでしまおうと思います。そしたらきっと楽になれる。だって、灰になったら感情なんてないしね。死ぬのは少し怖いけど、死ぬために苦しい思いをすることが怖いのであって、死んだあとは怖くありません。死後の世界なんてあるわけないし。
私は先にこの世界からいなくなりますが、どうか日影は生きてください。決して後追い何てしないでください。まあ日影は私と違ってしっかりしてるから心配はあんまりないけどね。
最後になりますが、あなたと過ごした時間は一生の思い出です。ありがとう。
溢れたのは激流だった。こんなことがあっていい訳がない。どうして彼女が殺されなければならないんだ? 瞳の奥が熱い。
許せない。彼女を殺した人殺し共が許せない。
主犯格の奴も、その友達も、黙って見ていたクラスの人達も担任の先生も部活仲間も顧問の先生も虐待していた家族も気づけなかったボクも。全員が許せない。
殺してやる。正義の鉄槌を下してやる。人殺しの悪が生きて幸せな思いをするなんて許さない。
どくどくと体の中心から熱が溢れてくる。あいつらが許せなくて。ボクも許せなくて。勝手に流れていた涙も沸騰水のように感じて、頭の中には焼けた石でもあるようで、全身が熱かった。
激情は一向に引かない。きっとすべてを消すまで止まりはしない。
彼女を殺した悪共に正義の断罪を。
本当の悪。 2 →




