深海の眼。
ボクがこの学園に来てもう一月が経とうとしていた。一年十組という最底辺クラスに入れられたものの、意外とクラスメイトは大人しく、表立った問題はあまり起きていない。
悪との戦いも止む無しと思って気張っていたのだが――少し拍子抜けしてしまった。
少し暖かくなった風が教室に吹き込んでいる。穏やかな陽気だ。そして、授業中である今も比較的穏やかな会話が交わされていた。
「お前は優秀だな。浄化も進んでるし……」
教卓の横で、この十組でも特に頑張っている優等生が先生に褒められていた。ボク達と比べても大分優秀らしい。
「早く浄化して、生き返って、今度こそ親孝行したいんです!」
先生の言葉に彼も笑顔で語る。直接話したことはないのだが、しばらく前に聞こえてきた話では家族絡みで罪を犯したらしい。彼が罪人であることは変わりないが、浄化に向けて努力する姿は悪とは思えない。
「そうか! 辛い思いをしたのに頑張れて偉いぞ」
先生も笑みを見せて彼の頭をがしがしと撫でている。学園の職員も元はここの生徒だったらしい。自分の後輩にあたる人間が努力しているのが嬉しくてたまらないのだろう。
「お前らもこいつを見習えよ!」
学級全体に向けて、声を上げる先生。十数名の生徒の返事や二人ほどの褒められた生徒を茶化す声も聞こえる。まるで普通の学校だった。罪を犯した人間の集まりとは思えないくらい日常的で、ボクもここで頑張って行こうと思える。
だが、そんな穏やかな陽気はガタッと椅子の動く音でぶち壊された。
音を気にせずに立ち上がった生徒。確か名前は――切崎羨。癖だけ染めた髪が動物みたいだ。紫の腕章をつけていて、持っている因子は嫉妬だと判断できる。生前のことは詳しく知らないが、何人も人を殺したらしい。
外見が特徴的だったからか、彼のことは早い段階で覚えていた。いつも一人でいる大人しい男子だ。……と思っていたのだが、空気を壊す行動をとる辺り、そうは言えないようだ。
「『銃創造』」
切崎の言葉と共に、彼の掌には拳銃が握られていた。それを教卓の脇にいる生徒に向けて。引き金を引いた。初めて生で聞いた銃声はどこか乾いた音がした。撃たれた生徒の肩が赤く染まる。
「……偽善者」
そして。吐き捨てるように呟いた切崎の言葉に脳が熱くなる感覚がした。
「切崎! 落ち……」
「やめろ人殺し!」
先生の言葉を遮って、教室に訪れた静寂を破った。突然人を撃った悪を許しておけるのか? 彼を粛清しなくていいのか? それにどうして他のクラスメイトも彼を止めないんだ。黙って彼のような存在を許容するのか?
あのクラスメイトが何をしたというんだ。ふざけるのも大概にしろ。
ボクの声は眼前の人殺しに届いたようで、銃を下さず、ゆっくりとこちらに顔を向けた。そして、どこか不思議そうな顔でぼそっと言葉を投げた。
「人殺しはお前も同じだよね?」
彼の言葉に脳の血管がぶち切れそうになる。うるさい。どこかで聞いたのか。と思ったが。ボクのしたことは知らない間に他の生徒も知っていたし、特に不思議はない。
「うるさい! 確かにボクも人殺しだけどお前もだろ!」
だが、ボクは彼のような悪とは違う。突然人を撃つような犯罪者とは全く違うんだ。ボクが目指すのは正義だ。一緒にされては困る。苛立ちは募り、目の奥も熱くなる。
殺さないと。悪は滅びろ。勝つのは正義だ。
切崎は顔をしかめると、手に持った拳銃をこちらに向けた。武器を向けたところで何だ? 武力に屈するほど弱くはないし、脅しを聞けるほど大人でもない。
もう一度乾いた音がして、左肩が熱くなった。軽く右手で触れると掌に巻いた包帯に赤い染みができていた。
攻撃するという事はやり返される覚悟があるという事だろうか。殺されても文句は言えないだろう。そもそも悪側である彼にそのようなことを言う権利もない。
「『ソール・ユースティティア』!」
身体の軽くなる感覚。心臓の鼓動、煮えたぎる血流が分かる。徹底的に潰してやる。罪を犯したことを後悔しろ。
机を数個飛び越え、切崎の前に着地すると彼の胸に向けて右拳を振り下ろした。久しぶりの人の骨が折れる感覚があった。彼はそのまま近くの机や椅子を巻き込んで床に体を投げた。周りの生徒が捌けていくのがわかる。粛清の舞台だ。
倒れ込む切崎の胸元を掴んで起こす。反省してあの優等生に謝るならば許さないこともない。――と考えたのも束の間だった。彼は少し顔を歪ませながらもボクに銃口を向けた。痛みからか、揺れ、狙いが定まっていない。
ああ、まだやるのか。もう許すことはない。
「いい加減にしろ!」
もう一度殴ってやろうと右手を握った時、頭上でガツンと硬いのがぶつかる音がした。視界が揺れ、足元が覚束ない。目の前で切崎も半分気を失ったような状態になっている。
そして、鼓膜を震わせたのは先生の怒鳴り声だった。ああ、また周りが見えなくなっていたのか。無理やり先生に立たされ、表室から引きずり出されていった。反対側の手には切崎が連れられている。先生の言葉がおぼろげながらに聞こえる。どうやら保健室に連れて行かれた後、職員室で説教らしい。
職員室の隅だった。切崎に撃たれた傷を保健室で手当てしてもらった後、事件の引き金である切崎と共に呼び出された。そして二人並んで正座させられ、長い説教を聞かされていた。
「わかってるのか!」
教室内で暴力沙汰を起こしたことで先生の怒りが頂点に達している。仁王立ちした彼は何かの番人のようだ。
「すみませんでした……」
謝るのは本心だ。生き返るためにやり直そうと決めたのに、学校生活が始まって一か月もしないうちにこんな事件を起こしてしまった。もちろん原因は切崎なんだけど――それを見て怒りを抑えられなかった自分も悪い。殺すとか物騒なことまで考えてしまった気がする。
当の切崎はボクの隣でだんまりを決め込んでいる。視線をどこかに投げ、先生の話を聞いているのかもわからない。そんな態度に、また少しだけ脳が熱くなった。
「お前も謝れ!」
「……何で」
ボクの言葉にぶすっとした表情で返す切崎。コイツはもう一度殴られないと気が付かないのか? 自分が最初に浄化に励んでいる生徒に怪我をさせた事が原因だと分かっていないのだろうか。
幸い先生がすぐに保健室に行かせたり、もともと掠っただけだったりと大事には至らなかったらしいが……それなら切崎を許せるのか?
「元はと言えばお前が!」
状況を忘れてつい声を荒げたが、先生にまた怒鳴られた。さらに説教は続いていく。先生は僕たちに仲直りしてほしいらしい。彼の話を聞いている限りではボク達に今後トラブルなく学園生活を送れるようにしろのことだ。
「とにかく分かれ。いいから仲直りしろ!」
「……やりすぎた。ごめん」
先生のいう事は理解できる。切崎にも何か事情があったのかもしれない。それを認めることはできないが、ないがしろにするのもどうかと思う。
ボクの言葉の後、長い沈黙が訪れ、ぽつんと「ごめん」とだけ聞こえた。意外にも先生が相手になれば素直に従うらしい。
謝罪は言える人間のようだ。後で追及する必要もないだろう。
先生から帰寮の許可が出た。その瞬間切崎は立ち上がり、職員室を出て行った。ボクも先生に頭を下げ、切崎を追うわけではないが、職員室を出た。
本当に彼は何故あんな行動に出たのだろうか。今思い返せば彼の眼は緑系統の色にも関わらず、深い海のようだった。
今後彼と話すことがあるかは怪しいし、彼の行動を許せるとは思えないのだが。
よくわからない奴だ。だが、彼のことを考えるとまた怒りが募りそうだ。こんな日はさっさとカフェオレでも買って帰ろう。荷物を取りに教室まで歩き出した。
10月お題『邂逅』
海音海月さんより切崎羨君お借りしました。