maidenhair tree
最近よく葉月さんを思い出す。ずっと心にしまってきた。というより避けてきた。葉月さんを連想させるもの全てが疎ましくて怖くてこれまでずっと逃げてきたのだ。
彼女は近所の小さな公園でよく本を読んでいた。イチョウの木の下で白いベンチに腰掛けて、淡いピンク色のひざ掛けをいつもしていた。
色素の薄い髪と青白い顔、華奢な身体を隠すように着ていたセーター。思い返してみれば私は葉月さんを忘れてはいないらしい。
近所の人は葉月さんを嫌っていた。得たいが知れないのが理由だという。実際彼女は謎が多かった。何処から来たのか、何の仕事をしているのか、何歳なのかさえ誰も知らなかった。もちろん私も知らなかった。
それでも私は彼女が大好きだった。外国の話や植物のこと、テレビのこと、音楽のこと。葉月さんはいろいろな話をしてくれた。とりわけ天気のいい日にはサンドイッチやクッキーを作ってきてくれた。葉月さんのクッキーはウサギやクマの形をしていた。動物たちの目はチョコチップで出来ていて、食べてしまうのが惜しいくらい可愛かった。彼女は時々歌もうたってくれた。帰る時はいつも可愛い包み紙にくるんだキャンディーをくれた。
私は葉月さんに甘えっぱなしだった。自分にお姉さんが出来たことが嬉しくて嬉しくてたまらなかったのだ。今思えば、綺麗で優しい葉月さんに崇拝に近い憧れを持っていたのかもしれない。
けれど、葉月さんの秘密を知った時、その気持ちは憎しみに変わった。
彼女は女性ではなかった。
大きく見開かれた目はいつも通りで、優しい声もいつも通りだったけれど、その日、葉月さんの様子は明らかに違っていた。
その人は淡々と語った。
夜の街を泳ぎ、朝には抜け殻になる生活を10年近くしてきたこと、その街で葉月さんは「ママ」と呼ばれていたこと、わが子のように育ててきた小さな妹のこと、夜の仕事で身体を壊し、心臓を病んでいること・・・一点を見つめたまま、葉月さんはいっぺんに喋った。
私は葉月さんの言っていることが解らなかった。私の信頼と尊敬を裏切ったその人を許せなかったのだ。泣き出した私に驚いて立ち上がった葉月さんを私は力いっぱい突き飛ばした。葉月さんはよろけもせず、私を受け止めた。青い目が血走っている・・・。
「フェイクの自分でいるのが辛くなったの。あなたを見ていると・・・」
消え入るような声で葉月さんは言った。
ふぇいく。偽物の葉月さん、じゃあ本当の葉月さんは何処にいるの・・・?
私は眩暈がした。
「ごめん・・・」
葉月さんの腕を払い、私は走った。とにかくその場から離れたかったのだ。
それから、私は葉月さんを忘れようとがむしゃらに過した。
あれから6年が過ぎた。
私はまだ葉月さんを許せないのだろうか。モヤモヤした気持ちになるのはなぜだろう。彼は果たして悪いことをしたのだろうか。隠し通すことは辛かったに違いない。私が好きだったのはお姉さんであって葉月さんじゃなかったのだろうか。今でも答えは見つからない。
急に思い出したのはひょんなことから知り合った人に葉月さんが重なったからだろう。憂いがかった大きな瞳が葉月さんのそれとあまりに似ていたから。
「自分のような人をこれ以上増やしてはいけない・・・。」
葉月さんの言葉がよみがえる。最期まで自分を肯定できなかった私の大好きな人。
こんな日は眠れない。特に、亡くなった人を思い出させるこんな冷たい雨の夜は。
この小説は性同一性障害モノと言うのでしょうか。ほのぼのとした場面を細かく書き、葉月の過去の場面は駆け足で綴っています。この小説は私の過去を回想し、まとめたものです。葉月零は確かに存在し、彼との思い出は鮮明であり続けるのに、葉月の過去についてはあまり触れていないころに書いてみて気付きました。