とびだせ!鍋奉行
『とびだせ!なべ奉行』
「これは自然の摂理……つまり神への冒涜?」
美味子は思わずごくりとつばを飲み込んだ。彼女がありったけの愛情をこめて煮込んでいた鍋の中から、立派なちょんまげを結ったお侍さんが顔を出したからである。
「いえ、きっと私への冒涜ね」
全身をおおっていた驚愕から解放されると、美味子はやり場の無い怒りをあらわにするのだった。
ことの始まりは些細なことであった。クラスで人気者の広人君の大勢いる取り巻きの一人である美味子は、彼に出会って以来ずっと「その日」を待ち続けていたのである。
その日とはお察しのとおり。言わずとしれたバレンタインデーである。男性たる筆者にはよく分からないのだが、好きな男子のいる女子はたいてい手作りチョコなんかにトライしてみるもんなんだろうと思う。少なくとも美味子はそう決意した。何故なら広人君がこう言ったからだ。
「美味子ちゃんの作ったチョコは食べてみたいね。だって名前からして料理上手そうだもの」
美味子はこんなふうに名づけた親を呪い恨んだ。名が体をあらわすなんぞ嘘っぱちだ。美味子は料理が大の苦手だったのである。
ここで読者は「恨むならつまらない社交辞令を言った広人の方だ」などと思ってはいけない。何故なら美味子にとってそれは社交辞令なんかではないからだ。恋する女子なんてそんなものだ……という仮定のもとに物語は進んでいく。
美味子は家に帰るやさっさと台所に向かった。これから猛特訓しなければならない。
帰りがけにスーパーでたっぷりと材料を買い込んだ(何を買ったかはここで記すことが出来ない。読者の皆さんに美味子と同じ悲劇を繰り返して欲しくないからだ)。時間はたっぷりある。何度失敗してもいいから広人君のために最高のチョコを作ってあげようと美味子は意気込んでいた。その矢先の出来事が冒頭に記したとおりである。
やけに威厳のあるちょんまげは「よっ!」と発するや「黒ひげ危機一髪」の要領で鍋から飛び出してきた。これを手に持ったおたまで思い切り叩き落す美味子。後頭部を押さえて悶絶するちょんまげ。
「いきなりなんのつもりだ!」
「それは私の台詞だ!漫画的な表現として料理下手の女の子がお鍋を爆発させちゃうってのは見たことあるけど……」
わなわなと肩を震わせる美味子。
「鍋からちょんまげが出てくるなんて見たことも聞いたこともないわよ!何?私の料理下手が漫画を超越してるとでも言いたいわけ?!」
ちょんまげの胸倉を掴んでぐらぐらと揺らす美味子。それにあわせて目の玉がぐるぐると回っているちょんまげ。
「せ、拙者はちょんまげではない。奉行なり」
「奉行?遠山の金さんみたいな?」
驚いて美味子が手を離すと、ちょんまげはキッチンに正座して深々と頭を下げ、うやうやしく挨拶をおこなった。
「拙者の名は田辺豊後之守崇文。人は拙者のことを【なべ奉行】と呼ぶ」
「うん、まあ、そう呼ぶでしょうね……」
まるでTVの時代劇から飛び出したかのような(実際には鍋から飛び出したのだが)なべ奉行をまじまじと見ながら美味子はそう言った。
「で、そのなべ奉行が私に何の用?」
「これはしたり」
右手をあごにあててにたりと笑う奉行。
「呼び出したのは貴殿の方ではござらぬか?」
すました顔でそう答える奉行の頭をむんずと掴むや、鍋の中にぐいぐいと押し込む美味子。
「呼んでないから、か~え~れ~」
「痛い熱い!やめて!底が抜ける!」
鍋底が抜けてはチョコレートが作れなくなってしまう。奉行の送還をあきらめた美味子は、あんたに言ってもしょうがないけど、と前置きしたうえでこれまでの経緯について奉行に話してきかせた。
「なるほど。恋の病は草津の湯でも治せぬと申しますからな」
右手をあごにあててにたりと笑う奉行。
「なんでいちいち『俺うまいこと言った』みたいな顔なのよ」
「委細承知いたした。拙者がなんとかいたしましょう」
「はぁ?」
驚いて素っ頓狂な声をあげる美味子に対し、奉行は根拠の分からない自信に満ちた表情で大きくうなずく。
「名奉行と呼ばれた拙者にかかれば、ハッキングから今夜のおかずまで手広く解決するでござるよ」
「手広すぎでしょ……」
「まあまあ、ここはこの隠居に任せていただけますかな?」
「現役じゃないのね……」
とにもかくにも奉行によるバレンタイン対策が講じられることとなった。なんだかんだ言いながらも広人君に好かれたい美味子は粛々として奉行のアドバイスに耳を傾ける。
「ときに美味子どの。貴殿は恋愛とはいかなるものかご存知かな?」
「え?いや、そんなこと急に聞かれても……」
顔を赤らめてしどろもどろになる美味子。奉行は神妙な顔で言葉を発した。
「恋とは求めるもの、愛とは与えるものでござるよ」
「えっと、つまりどういうこと?」
「言うなれば、小判の表と裏のようなものでござる」
右手をあごにあててにたりと笑う奉行。
「だからうまいこと言ってないからね」
「つまり恋焦がれてただ求めるだけでは愛は得られんということでござる。相手が何を欲しているかを鋭く察知し、それを与えることではじめて愛は得られるのでござるよ」
「へえー、なるほど」
感心して思わず手を打つ美味子。そしてしばらく思索にふけるも、名案が浮かばずにすぐに断念してしまう。
「で、何すれば喜ぶんだろ?」
「拙者に腹案がござる」
そう言って鮮やかな色合いの帯を美味子に手渡す奉行。きょとんとして帯を手に取る美味子。
「では、早速演習をはじめるでござる」
まなじりを決して仁王立ちしている奉行。その首から「ひろと」と書いたプラカードをぶら下げてられている。
「拙者を広人殿だと思い、本気で来るがよい」
黙ってこくりと頷き、何やらぎこちない足取りで奉行の前に出る美味子。素っ裸に先ほどの赤い帯を巻きつけ、大事なところのみを隠した上でリボン結びをしているというアグレッシブすぎるいでたちであった。
「ひ、広人くん……」
「うむ!」
「えっと、あの……」
「どうした、頑張って!」
「私を……私を食べて!」
顔を真っ赤にして奉行に告白を行う美味子。
それを聞き届けるや右手の親指を立てて白い歯を見せる奉行。
その顔面に美味子の鉄拳が飛ぶ。鼻血が吹き出るのを両手で押さえる奉行。
「な、なんでござるか?!」
「アホかーーー!リアルにこんなん居たら逆に引くわー!」
「そんなことないわい。むしろ拙者は食べたいと思ったでござる」
「食われてたまるか!」
そして、ろくな秘策もどころかチョコレートすら出来ないままにバレンタイン当日を迎えた。
結局チョコはお菓子屋さんで買うはめになったが、もはや美味子に選択の余地は残されていなかったのである。
ここで読者の皆さんに知っておいてほしい事実がひとつある。
美味子に対する強力なライバルの存在である。名前は千代子と言い、美味子と同じく広人君の取り巻きの女子だ。
筆者の文章力では伝わりづらいことなのだが、美味子という女子はかなりの美少女である。もしも同じクラスにいたら「彼氏とかいるのかな?」とほとんどの男子が気にするだろうし、隣のクラスからわざわざ見に来る男子もいるかもしれない。そのくらいの可愛さは持ち合わせてる。
だが対する千代子はと言えば、同じクラスの男子のほとんどが「アイドルみてえなだ」と思うだろうし、下手をすればスカウトがわざわざ見に来るくらいの可愛らしさなのだ。この時点で明らかに美味子は分が悪い。
そのうえ千代子は顔はおろかスタイルやら成績やら、少なくとも「良いにこしたことはない」と思われる要素のすべてがことごとく良かったものだから、それは美味子も焦るわけなのである。
では何故にそんな素敵な女子が広人君の取り巻きなんぞやっているのか?というのは確かに自然な疑問である。答えは簡単だ。千代子は彼女の持つありとあらゆる「良い」点の中でも、特にずば抜けて「人が良い」のだった。だからただでさえ素敵な広人君から「千代子ちゃんの作ったチョコは食べてみたいね。だって名前が千代子なんだもの」なんて社交辞令を言われた日には、コロッと信じてしまったのだ。あの人には私が必要なのね、と。
ここで読者の皆さんは「こんな軽薄な男、死ねばいいのに」などと思ってはいけない。なぜならそれは書いている筆者自身が誰よりも強く思っているからだ。
さておき、美味子から「絶対ついてこないでね!」と強く言われていたにも関わらずこっそりとあとをつけていた奉行はそんな事情を知らないものだから、チョコを抱えて広人君のもとへと駆け寄った美味子が千代子とはち合わせたのを物陰から目撃して仰天した。
「むう、これはいわゆる修羅場でござるな」
右手をあごにあててにたりと笑う奉行。
一方、広人君を前で美味子と千代子は顔を見合わせていた。
「どうして……抜け駆けはしないって約束だったじゃない!」
親友に裏切られた悲劇のヒロイン然とした表情を満面に浮かべながら美味子を責める千代子。全力で「お前が言うな」とツッコみたいところだが、なにせ抜群に可愛いのでそこはなんとかこらえてあげてほしい。
とにかくふたりは、たった今からひとりの男子を巡ってのっぴきならない争いをしなければならなくなった。逆に言えばひとりの男子は今すぐにふたりのうちからひとりを選ばなければならなくなったのである。身から出た錆とは言え、それはあまりにも過酷な選択だと言えよう。広人君は美味子と千代子を置いてとっとと逃げようと思ったが、そうは問屋がおろさなかった。
「広人君、これを受け取って!」
美味子と千代子はまったく同時にまったく同じことを言った。まるでケミストリーのようである。まるで狩人のようである。まるで由紀さおり姉妹のようである。とにかくふたりはお互いに一歩も譲らなかった。とても可愛い千代子と(相対的に)まあまあ可愛い美味子を前にして、優柔不断で八方美人な広人君が決断を下すのは到底不可能なように思われたのだが……
「ずいぶんとお困りのようだねぇ」
そこへ奉行が颯爽と姿をあらわした。口には長い爪楊枝をくわえ、雪のような白馬にまたがって。一体何がしたいのかさっぱり分からない。
「あ、あなたは誰ですか?」
広人君が至極まっとうな疑問を唱えると、奉行は親指で胸元を指すという至極アメリカナイズされたジェスチャアで答えた。
「俺かい?通りすがりの遊び人よぅ」
「仕事しろよ……」
「ていうか遊ぶにも程があるでしょ……」
呆然とする広人君と千代子。
「まあ細けぇことは気にするなって。なあ美味子!」
「知り合いなの?!」
広人君と千代子の叫びと視線がグサリ突き刺さる。ぶんぶんと大きく首を横に振る美味子。
「め、めっそうもござらん」
「いや言葉遣いおかしい!」
「明らかにあっち側じゃない!」
大揉めに揉める3人。しかし奉行はお構い無しに自分勝手な提案を行う。
「どうだい、どちらさんもこの遊び人のナベさんに任せちゃもらえねえかい?」
「やだ!」
「断る!」
「右に同じですー」
「まあそう言うなって。悪ぃようにはしねぇからさ」
この男、基本的に人の話を聞いていない。嫌がる美味子と千代子の手をとると、それぞれに広人君の右手と左手をしっかりと握らせた。
「何よコレ?『人類皆兄弟』とか眠たいこと言うつもりじゃないでしょうね?」
怪訝そうに顔をしかめる美味子の目の前に人差し指を立て、ちっちっちっと舌をうつ奉行。
「いいかいお嬢ちゃんたち。これから二人で広人君の手を思いっきり引っ張りあってもらうぜ」
「それって、一体どういうことですか?」
「要するに惚れた男を賭けた愛の綱引きさね。両側から手を引いて、勝った方が彼氏の真の彼女ってえ寸法さぁ!」
「委細合点承知之助!」
「君絶対そっち側だと思うぞ……」
意気揚がる美味子と呆れかえる広人君。千代子も仕方なくこれに応じた。
「わかりました。それが広人君のためならば……!」
なお、どう見ても自分のためだろというツッコミは後で受け付けることにする。
向かって左側に美味子。右側に千代子。ふたりはそれぞれに広人君の片腕をしっかりと掴み、お互いを睨みつけて火花を飛ばしている。
「どちらさんも、ようござんすか?」
しっかりとうなずく美味子と千代子。左右に激しく首を振っている広人君。
「なれば……ハッケヨイ!」
かくして「愛の綱引き勝負」の幕は切って下ろされた。渾身の力でもって広人君を引っ張りあう美味子と千代子。両肩を脱臼しかねないほどの激痛に悲鳴を上げる広人君。
「あだだだ!痛い痛い!」
「我慢して広人君、これも貴方を思うからこそなのよ!」
無茶苦茶な理屈を主張する美味子。筆者の経験上「貴方を思うからこそ云々」言う輩にロクな者はいない。他人のためと言いながらもそこには少なからず自分のエゴが介在するからである。
ともあれ美味子は愛する広人君のために全力全身でその腕を引く。負けじと千代子も手を引くが、その力は次第に弱くなっていく。そして激痛のあまり広人君が涙目になってきたあたりで、遂に千代子は引く手をそっと離してしまった。
「やった、やった!」
歓喜の声をあげながら二度三度と飛び上がる美味子。しかしその様子を奉行は悲しげで寂しげに見つめていた。
「貴殿の負けでござるよ、美味子殿……」
「ええ!なんでどうして?」
「この有名な大岡裁きの逸話をご存知ではござらんかったか……千代子殿、貴殿は何故広人君の手をお放しになった?」
「それは……」
うつむいて静かに答える千代子。
「見てられなかったんです。広人君が苦しむ姿を」
その言葉を聞いてはっとする美味子。そういうことだ、と言わんばかりに頷いている奉行。
「前にも言ったではござらんか。『恋は求めるもの、愛は与えるもの』だと。求めるばかりでは得られぬものがあると言ったではござらんか……」
へなへなとその場に座り込んでしまう美味子。己の浅はかさ、独り善がりに気づかされがっくりとうなだれている。
「……そうよね。私自分のことばっかりで、広人君の気持ちなんかちっとも考えてなかった……ホント最低だ」
「そんなことないと思うよ」
意外な言葉の主は他ならぬ広人君であった。美味子が驚いて顔を上げると、広人君は白々しい……もとい清々しい笑顔を浮かべていた。
「そりゃあ確かに痛かったけどさ、その分美味子ちゃんの気持ちが伝わってきたもの。うぬぼれかもしれないけど、こんなにも愛されてるんだなあって」
「私も……」
千代子も広人君の言葉に同調した。
「本当に人を好きになるって、そういうことじゃないかと思ったの。美味子ちゃんをみているとね、私なんかまだまだだなあって」
「広人君、千代子ちゃん……」
うっすらと涙を浮かべる美味子。ふたりはそんな美味子をあたたかく励ますのだった。
「うむ、これにて一件落着!」
「ああ、うん、アンタのおかげじゃないけどね」
何故か満足げに白馬にまたがると、颯爽と3人に別れを告げる奉行。
「それではおのおのがた、ごきげんよう!」
「いや止めないけど一応聞いとくわ。どこ行くの?」
「さてね。あてどもない旅でござるよ」
「さっさと行け!」
美味子の怒声におくられて遠くへ消えていくなべ奉行。その行方はたれも知らない。
それからひと月後。美味子と広人君の中はまるで進展していなかったが、かわりに千代子とは大親友になっていた。お互いに無いものを持っている同士として、ふたりは何でも話せるきわめて仲の良い間柄になっていたのである。
それは美味子にとってとても嬉しいことであった。なりゆきの果てとはいえ、もしもあの時なべ奉行がいなかったら……そんなことも考えるようになっていた。そう思うとあの無責任で間抜けでどこか憎めないあのちょんまげのことが、ほんの少しだけ懐かしかった。
そんなこんなで美味子と千代子はふたり並んで校舎の廊下を歩いている。広人君がどうしてもふたりに相談したいことがある、と言ってきたのでふたりで校舎の裏庭に向かっているのだった。
「なんだろうね、相談したいことって」
「さあ?とりあえず行ってみるしかないですね」
ふたりが裏庭に向かうと、そこには広人君が確かにいた。両手で大きな鍋を抱えて、途方にくれたような遠い目で。
「や、やあ……」
「どうしたんですか、そんな大きなもの抱えて」
「ひょっとして、チョコのお返しとか?!」
「うん、まあそうなんだけど……」
広人君の答えに手を取り合って喜ぶ美味子と千代子。しかし広人はと言えば実に浮かない顔をしている。その表情は、落胆と困惑が混ざりあったような複雑なものだった。
「漫画的な表現として料理の下手な子がお鍋を爆発させちゃったりっていうのがあるじゃない?ああいうのって完全なフィクションだと思ってたんだけど、こういうのって普通なの?」
広人君の言葉をきっかけに美味子の脳裏にある記憶が甦る。忌まわしいような甘酸っぱいような禍々しいようなほろ苦いようなひと月前の思い出。美味子はおそるおそると、本当におそるおそると鍋のふたに手をかけた。
そしてゆっくりとふたを開けると、そこにはやけに威厳のある立派なちょんまげの顔があった。
「よっ!」
「出んな!」
すかさずふたを閉じる美味子。思い切りふたを押さえていると、鍋の内側から情けない声が聞こえてくる。
「出してよぉ~。ここ狭いし熱いんでござるよぉ~」
「知るか!ていうかあてのない旅の果てにどうして鍋にたどりつくのよ!」
「ねえ、これ一体どうしよう?」
「縄でぐるぐる巻きにして見世物小屋に売り飛ばしたらどうでしょう?」
「ニコニコしながら怖いこと言うな……ぶんぶく茶釜じゃないんだから」
結局鍋がもったいないという結論に至り、売り飛ばすのはやめて鍋から開放された奉行であった。当分の間、何かが一件落着まではおそらく広人君の家に居つくつもりであろう。
もしも読者の皆さんが、心を込めて鍋を用いる際には十分に注意を払っていただきたい。鍋奉行はいついかなる鍋から飛び出してくるやも分からないのだから。
(終)