彼女の結婚
「結婚、ですか」
アルディアンナが19歳の時の話だ。
金を掛けられずあまり立派ではない執務室の、机越しの父は暗く沈んだ表情をしている。
それも仕方がない、父が先程告げた結婚相手は歳が随分離れた下級貴族である。
アルディアンナとは20近く年上であり過去には既婚暦もある。
しかも元は一代で財を成した商人の男で、その爵位さえも金で買ったようなものだ。
そんな巷でも強欲と評判の男が血筋に本物の『貴族』を欲した。
一方で、アルディアンナの父が治めるクレイレ領は近年稀に見る不作が続いている。
勿論贅沢はしていないし、領民にも同じく過酷な生活を強いても来期まで持ちこたえることも儘ならなく、追い詰められていた。
幸い領民はクレイレ子爵の人柄を知っているからか誰も責めないが、今のままでは明るい展望もない。
要するに財政が苦しい我が領地を救うための政略結婚であることを、アルディアンナは瞬時に理解する。
王都の貴族からしたら貴族で19歳で婚約もないのは珍しいが、この権力とは縁遠い田舎の領地ではざらだ。
王都の貴族でも婚約は早くとも結婚までは20を過ぎてからがだが、地方ではさらに遅いこともある。
2人姉妹の長女であるアルディアンナもいずれ父の後継となる側近の誰かを婿にするのだろうと漠然と思っていた。
思っていたより現実は手厳しい。沈鬱な父の表情からもアルディアンナを手元に置いておきたかった様子が伺える。
しかしアルディアンナにも父にも拒否権はない、もうこれは決定事項なのだから。
父を安心させるように、表情を緩めて微笑む。
「将来を約束した相手もいないのですから心配しないでください、お父様」
言い切ったアルディアンナの脳裏に一瞬だけ、蜂蜜色の面影が過ぎった。
それでも、あんな約束事を信じられるほど子どもでもなかった。
その後の両家の取り決めにより、結婚は一年後に行われることとなった。
約束の通りすぐに領地は援助を受け、何とか冬を凌ぎ徐々にだが回復していて、来年の冬は大丈夫だろうと一安心する。
アルディアンナにとって嫁ぐのは愛する領地の為だった。愛し育ててくれた領地や領民に対しての最大の恩返しにもなると考えていた。
結婚の準備や生活の中で目まぐるしく日々は過ぎ、一年後の結婚式まであっという間に近付く。
あと一週間もしないうちに、アルディアンナは見知らぬ地に嫁ぐ。
納得のこととは言えため息は知らず内に増えていき、アルディアンナの家に仕えてくれる数少ない侍女達も心配そうに見守っている。
この愛する地を離れなければいけないという事実だけが、アルディアンナの心を鬱々とさせた。
周囲に心配を掛けていると解っていたが、それでもため息は減らなかった。
「アディお嬢様、お客様がいらしておりますが……」
「お客様?」
その日は生憎両親はいないので、長女であるアルディアンナが仕切らねばならなかった。
留守ということで約束などはないはずだが、待たせるわけにもいかないだろう。
とりあえず失礼のないように身だしなみだけ確認し、客人が通されている応接間へと急ぐ。
応接室に入ったとき視界に入った、あまり上等といえないソファーに座っている男に妙な違和感を感じた。
こんな貧乏な下級貴族の家なんぞには縁遠いはずの人だ。
地味に見えるが上等な衣服を身に纏い、悠々と座っている。
上等じゃないソファーが高級に見間違うほど高貴な風格であり、この場にそぐわなかった。
それでも構わずその人物は、アルディアンナが視界に入ると微笑んで優雅に挨拶を行う。
「クレイレ子爵家のアルディアンナ様でいらっしゃいますね?私はシェルファイス・ラングラドと申します」
「ええ。父の代わりで申し訳ございませんが…」
「いいえ、私は貴方に御用があって参りました」
きっぱりと告げる目の前の男に、アルディアンナは心当たりがない。
同時に聞いた『ラングラド』の家名には昔の記憶が呼び起こされる。
森の館の貴婦人との勉強会を思い出さなくなって久しいが決して忘れることはなかった。
正直学んだときは何の役に立つのかと思ったのだが、その記憶が今役立った。
確か王家の血筋にも何度かつながりのある上位貴族の家名だ。
学んだときの6~8年前と変わっていなければ当主は宰相の地位であるが、宰相とは名が違うので恐らくこの男はラングラド家の関係者といったところだろう。
それでも権力に近い上位貴族と縁を持った記憶はまったくないので、つい訝しげに顔を顰めてしまう。
「……私に、ですか?」
「はい、単刀直入に申し上げると結婚を取りやめていただきます」
アルディアンナはシェルファイスの言葉に固まった。
突然、何を言っているのだろうか。
思考が真っ白に停止したまま、何とか言葉を搾り出す。
「それは、どういう意味で……」
「その言葉の通りですよ。クレイレ子爵家とクラリッツ男爵の婚姻を破棄します」
クラリッツ男爵はアルディアンナが嫁ぐ予定の家名で、当主だ。
アウリス国では領地を任されている貴族には、当主の婚姻を国王陛下に報告する義務がある。
といってもそれは形式的なもので、余程の急ぎの理由がない限りは半年から長くて一年以内に許可が降りる。
最も、広大なアウリス国を治める国王陛下本人が全ての貴族を統括しているとは考えられない。
「どういった権限でそうなさるのですか」
昔のように怒りの感情のままに怒鳴らなくはなったが、アルディアンナは静かに気色ばむ。
クレイレ子爵家にとってこの婚姻こそが、領民の救われる手段だというのに。
反故にしたとなれば、莫大な違約金を要求されるだろう。
クレイレ子爵家にそんな余裕などあるわけがない。
「ご心配はなさらず。陛下は却下とのご判断です」
考えを見通しているのかようなシェルファイスに今度こそアルディアンナは言葉を失った。
却下される場合は、どちらかの家に不服の申し立てがあった場合かもしくは何らかの見過ごせない問題が起きたとき。
例外で今まで聞いたことがないが、権力者である国王陛下ご自身の判断だ。
この場合は、一体どれにあたるのだろうか。
激しく動揺していてアルディアンナは思考が纏まらない。
混乱するアルディアンナにシェルファイスは癖のある笑みを見せた。
「クレイレ領もご心配には及びません。我がラングラド家が支援致します」
「どうして……そのようなことを?」
アルディアンナの心残りはその一点だ。
その申し出は本来ならばありえない、全く関係のない家柄なのに。
「我が主の望みだからですよ」
王家にも近いラングラド家が『我が主』と敬う人物。
アルディアンナの考えが正しければ、その人物はこの国で一人しか居ない。
しかし様々な疑問が残り、決め付けるのは早計だ。
「あのラングラド様の主様とは一体……」
「それはお会いしてからのお楽しみにしましょう」
シェルファイスは人差し指を口元に宛がい、声はとても愉快そうだ。
それでいて曲者のこの男は、きっとアルディアンナの一番知りたい疑問には答えないだろう。
疑惑な眼差しで見つめていたら、シェルファイスは突然立ち上がる。
「それでは行きましょうか、我が主のもとへ」
急に手を差し伸べられたアルディアンナが驚いて動けなくなるのも無理はなかった。