綻びの予感は
鏡越しの自分の姿を見て、ため息をつきたくなるのをぐっと我慢する。いくら乗り気ではないとしても、ため息をついてしまうとアルディアンナに丁寧な支度をしてくれた侍女達に失礼だろう。
鏡越しではあるが後ろに控えている侍女たちは、楽しそうに笑顔でこちらを見ている。ただ一人アルディアンナの複雑そうな表情を汲んでか、侍女のなかでも側近のリザだけは苦笑ぎみだ。
「いかがですか、アルディアンナ様」
「ええ……ありがとうございます」
鏡には髪を編み上げられてきれいな衣装に身を包み、丁寧な化粧を施した自分が写っている。見違えるほどではないが、いつもより何割か増し綺麗に見える。
だけど、それだけだ。目の奪われるほどの美しさでもない。
これから会いに行く人は、全ての人を虜にするほどの優美を持っている。その人の前ではアルディアンナがいくら着飾ろうが無意味にも思えた。
容姿の美醜に拘ったことは無かったが、 美しい人の横に並ぶのを憂鬱に思うことぐらいの感傷は持っている。それを考えただけでアルディアンナの心は重苦しい。
それでも、アルディアンナには拒否することはできなかった。
相手は、次代の王妃と名高いフィーネリア侯爵家ベアティミリアであるのだから。
アルディアンナがクラウディアードからもう一度会うかと提案されて、何の答えの出せないまま戸惑っていた頃に届いた手紙。答えを出さないアルディアンナに焦れたのか、ベアティミリアからの茶会の誘いだった。
フィーネリアの名を使ったそれに、下級貴族のアルディアンナには断るすべもない。支度については、ラングラド家が請け負うという根回しも既に済んでいた。
「アルディアンナ様……近衛のものが参りました」
憂鬱そうなアルディアンナに遠慮がちに声をかけたのはリザだった。せめてリザが一緒であれば少しは心強かったかもしれないがそうもいかない。今までも心を砕くような世話をして来てくれたリザにせめて心配を和らげるよう微笑みを浮かべて頷く。
こうして着飾っているというのに戦場へと赴くような気分なんて、不思議な感傷だとアルディアンナは思う。
ああ、だけども師であった貴婦人が優しげな顔を怖いぐらい歪めて、社交界は戦だと説いていた。それを思い出すと張り詰めた緊張が少しだけ緩んだ気がして、改めて姿勢を整える。たとえ見劣るとしても、あの教えてくれた日々を無駄にしたくはない。
アルディアンナの自嘲めいた苦笑にリザは内心を察するが、身に付いた立ち振舞いは恐らくベアティミリアにも劣らない。そんな品格を漂わせていることをアルディアンナ本人だけが気付いていない。現に迎えに来た近衛兵はアルディアンナに圧倒されたように見入っている。
「では、アルディアンナ様。行ってらっしゃいませ」
リザを筆頭に侍女が頭をさげて見送る。そんな仰々しいのは止めて欲しかったが、聞き入れることもないだろう。
「……行って参ります」
侍女たちを一瞥したあと、先導する近衛の兵に続いて部屋を出る。憂鬱な気分は変わらないが、逃げ出そうとはもう思わなかった。
アルディアンナは何度も逃げ出そうとしたはずなのに、今は自分自身の意思ではっきりとした足取りで出ていっている。頭を下げながらも、リザは感慨深い面持ちだった。一時は精神を病んでいたことさえあったというのに、心の折り合いがついたのか最近は意識ははっきりしており、初めて会ったときのような朗らかさを見せることも時折あった。
それは同時にもうひとつの、花の蕾が綻ぶような、そんな予感。
ベアティミリアがアルディアンナを茶会に誘うこと、それは停滞した現状の変化に違いなかった……そしてリザが思うように、もう一方も同じように予想している者がいた。
暫く歩みを進めていたアルディアンナを先導していた近衛が突然止まった。
どうしたのだろうかと前方にに視線をやると、一人の騎士が立っていたのに気付いた。近衛の機能を重視した格好とは違い、どこか優美さも兼ね備えたその格好には見覚えがあった。
あの以前、冷たく注がれたその漆黒の瞳も。
「イグラルド様、どうされましたか」
唐突なベアティミリアの騎士の登場に、近衛の兵は困惑気味に声をかける。どうやら不測の事態のようで、判断に困っているようだった。
「……ベアティミリア様の命を受け、アルディアンナ様を迎えに参った。諸君らは此処で下がるように」
この寡黙な騎士が話しているところを、アルディアンナは初めて見た。それでいてその言葉はしっかりと、他人を従える力強さを感じる。
その通り、圧倒されている近衛の兵は戸惑いながら、もう一人と顔を見合わせる。だけど彼らもアルディアンナを送り届けることは職務であるのだから、素直に引き下がる訳にはいかなかった。
「しかし……我々はベルムール将軍の命令でアルディアンナ様をお守りしお連れしろと言われております」
「そのベルムール将軍には話を通している。諸君らは茶会後にまた迎えに来てほしい」
彼らの上司である名前を出されると、近衛の兵は怯む。上司とこの目の前の騎士が幼少からの友であり、騎士と近衛と立場が違っていたとしても今もなお固い信頼関係があることは周知の事実だった。
そのこともありその言葉を信用していない訳ではないが、この任務は儀式的な意味合いも持つので最後まで判断に迷う。
「ですが……」
「私はベアティミリア様の筆頭騎士だ。なにか不足でも?」
黒曜石の輝きに似た瞳に睨み付けられては、立場の違う彼らには反論の言葉が詰まってしまう。
それにここは、後宮だ。王と、妃を守るものなど限られた者しか出入りは許されていないこの場で、何らかの問題を起こすような人物ではないという判断はできている。
何よりエリクシェスは、あのベアティミリアの盾となる名誉ある役目を戴いている。
そのため最後の最後で判断は、背後に控えているアルディアンナに任せることにした。
事の成り行きを見ているだけであったアルディアンナに、二人は視線を向ける。ここでアルディアンナが、否とすればエリクシェスとはいえ強くは出れないだろうが、そもそもアルディアンナに拒否する理由もなければ立場でもないことを本人は誰よりも理解していた。
「……構いません、ベアティミリア様のご意向に従います」
意外にも素直に従う意思を見せたことに瞠目しつつも、そうであるならばもう何も言うことはない。近衛の兵は、アルディアンナとエリクシェスに頭を下げてから元来た道を戻っていった。
姿が見えなくなるまで見送ってから、エリクシェスは黙ったまま前を向いて歩き出す。それに遅れないようにアルディアンナは続いた。
何度か角を曲がったところで、以前の案内された道とは違うことに気付く。目的の所は変わらないのにそういうこともあるのかしら、と思いつつも、若干不安を感じて黒衣の騎士の背中にちらりと視線を向ける。と、気付いたのかただの偶然だったのか騎士の歩みが止まる。
「ど、どうされましたか?」
「こちらへ」
突然に導かれて、近くの部屋にはいる。入ってから客間と言うよりは、会堂のような部屋だと気付いた。
薄暗い部屋の中を囲むように、絵画が掛けられている。絵画は全て人物を描いており、古いものから順に並べられていた。視線で辿ると、比較的新しいと思われる絵画に描かれている人物に止まった。
優しく微笑む美しい女性と、その女性の肩に手を置き、笑んではいないが柔らかい表情をしている美丈夫。
女性の方は勿論、美丈夫の方も一度だけ見たことがある。そしてこの二人にどこかしら似ている人も、よく知っている。
「……それは先代の国王陛下と王妃陛下だ」
じっと見入っていたからかのエリクシェスの答えに、アルディアンナはそれほど驚かなかった。ただ改めてその事実を確認すると、なんて畏れ多かったのだろうということ、やはり遠い存在であることを思い知らされる。
この並んでいる絵画の数だけ、この国の歴史は築かれていたのだ。胸の奥が重たくなるような畏敬が込み上げる。
だけどどうして、と疑問に思ったとき、エリクシェスはアルディアンナに応えた。
「貴女には、ここに自分が描かれる覚悟はあるのか?」
一瞬息が止まるぐらいの衝動だった。何もないところに立っているというのに、足場が急に不安定になったようで必死で踏ん張った。
「な、にを……」
声は震えているだろう。その可能性を知りたくはなかったのだから。
「……貴女が望むなら、ここを出る手助けをする。」
まるで刺すような、それでいて憐れむような視線に、いっそのこと意識を手放してしまえたらどんなに楽なのだろうか。
真意が見えないからこそ、アルディアンナは負けじとエリクシェスを見つめ返す。
そしてエリクシェスごしに、足掻いた過去を見つめた。