遠くなった日
アウリス国より北にある場所に今は歴史の中にしか名を残さないアルトゥールという国があった。
現アウリス国王の2代前の時に突如、クーデターが起きる。
当時のアルトゥール国の王弟が叛意を抱き起こしたのだ。
いつの間にかに私欲におぼれ腐敗した貴族を味方につけていた王弟の手により、王家の名に連ねるものは見せしめのように惨殺された。
長年友好国として付き合いのあったアウリスを含め周辺国は自国に降りかかるかもしれない戦禍を避けるため、表立っては沈黙を貫いた。
内戦にほかの国が介入すると、それだけ火種は大きくなり混迷に陥るからだ。
やがて力によって国を掌握した王弟による悪政に、従うしかなかった民たちは虐げられた。
長く苦しみを強いられていた中で民たちは、とある娘を救いの主として押し立てる。
やがて小さな希望であったそれは、国すべて飲み込むまでに強くなった。
その奮い立った民たちを先導した娘こそ秘密裏に平民のもとへ嫁いだ王女の一人娘で、王弟以外の正統なる王家の後継者だった。
こうして、アルトゥールの内戦は王弟が討たれることで終わりを見せる。
その後復興には惜しみない援助を約束していたアウリス国や周辺国とともに、この娘を新たな女王としてアルトゥールは新たな歴史を刻むはずだった。
しかしこの王家の血を引く娘はそれを拒み、その代わりに当時でさえも大国であったアウリスの属領になることを提言した。
この頃にはあまりにも王家の被害は大きく、またアルトゥールという国がが自身の力では立て直せないぐらいに疲弊していたからだ。
そしてアウリスの属領とすることで、余計な反発をなくし支援を受けやすくするのも目的の一つだった。
なにより、娘は表舞台からはひっそりと消えるつもりであった。
元々存在はなかったことにされていた身であったし、育ちも庶民であったがゆえに女王などなるつもりはまったくなかった。
そのつもりだった娘に民たちは、属領となるならばその領主にと望む。
強く懇願され困った娘は、アウリス王の提案によりアウリスの諸侯を婿に迎える。
当時復興に携わったアウリス軍の若き将で、その家柄はアウリス国の歴史にも深く繋がるものだった。
一方で、一見すると政略にしか見えないこの婚姻が実は両者の思いが通じ合ってされているものとは語り継がれていない。
「ねえ、それで幸せになれたの?」
話をおとなしく聞いていた可愛らしく少女は
首を傾げると、さらりと二つに結われている金の髪が揺れた。
目の前の少年に身を乗り出して、期待に満ちたように頬を紅潮させている。
無理もない、少女はこういった話が好きだからと少年に語らせたのだ。
話の切っ掛けとなった国章、今となっては家紋の刻まれた短刀を仕舞う。
「勿論お祖父様もお祖母様も仲睦ましくしていらっしゃいます」
「そう……よかった!」
ふうっと満足そうに少女は胸を撫で下ろす。
そんな少女に少年は目を細めて微笑む。
この少女の園で出会ったころと少女は変わらない。
変わったことといえば、最初の印象より年相応に表情が柔らかくなり泣くことより笑うことのほうが多くなった。
素直に感情を表現しまだまだ幼い印象の少女に対して、少しずつ少年は変わった。
騎士を目指しているため体を鍛えているおかげで、時々表情は大人びているようにも見える。
「それより!敬語はやめてって言っているでしょう?」
笑っていたかと思うと途端に眉を吊り上げ、怒っているという態度を示す。
少年は毎度のことながら困惑したように苦笑を返すしかない。
「しかし……」
「いつものようにベティと呼びなさい!」
少女の、ベティの言葉に、益々口ごもる。
そもそもこうやって二人きりで会うことさえ良いことではないのに。
しかし、目の前のベティは頬を膨らましている。
いくら怒っているという態度を示しても、少年にはベティが可愛らしくしか映っていないのに。
「……わかりました、ベティ様。ですが、俺は今作法の練習中なので付き合っていただけますか?」
騎士しての特訓で、礼儀作法も叩き込まれる。
勿論もっと幼い時から教育はあったので、さほど苦ではないが今目の前の少女を納得させる理由にはなりそうだと思いついた。
少年の咄嗟の思い付きではあったがそう言われてしまっては、ベティも困ったように悔しそうに表情を変える。
何かを要求することはあっても頼られることがないので嬉しい反面、悔しい気持ちでいっぱいなのだ。
「し、仕方がないわね!どうしてもというならわたくしも付き合って差し上げますわ!」
仕方ない、と強がるベティに、少年は笑みを誘われる。
ベティは遠目で見るときはまるで仮面を被っているように静かで、まるで愛らしい人形のようだ。
本来はこうやって活発なのに。
本来はこうやってくるくると表情を変えて可愛らしいのに。
そんなベティの姿を皆が知らないというのを残念に思う一方で、少年だけが知っているベティに優越感に似た思いを感じる。
「ありがとうございます、未来の王妃様」
そう思う一方で、こんな感情は持ってはいけないと『未来の王妃』という言葉で自身をけん制する。
何のためのにここに自身がいるか、忘れないためにも。
その言葉を出すたびに、ベティが泣き出しそうに複雑な表情を浮かべていても知らないふりをする。
「わ、わたくしも練習しなくてはいけませんもの……」
歪めた顔を見られないようにベティは少年に背を向けた。
声色から泣き出してはいないだろう。
その小さな背中を抱きしめることができるならば。
少年は強く自制するように拳を握りしめる。
「でも……」
「え?」
「あなたはわたくしのそばにいてくれるのでしょう?」
突然くるりと振り返ったベティはもう微笑んでいる。
微笑みはまるでこの庭園を飾る白い花に匹敵する美しさだ。
息が止まるぐらい見とれそうになりながら、少年は頷く。
あの日、初めて出会って少女を守ると誓った大切な思いは忘れない。
「それなら……今はその約束があればいいの……」
幼い時にここに連れてこられてから数年。
さびしいと泣いて過ごしていた日々に突然出会った少年。
あの日の約束がどれだけベティの心の支えになっているのかを、目の前の少年はきっと知らないしまだ知らせようとは思わない。
「必ず叶えてくださいね」
ベティは誰にも見せることのない、特上の笑みを浮かべた。
ずっとこんな日が続くと信じて。
ただ、その日は運が悪かったとしか言えない。
今までずっと見つからなかったのに。
偶然庭園から出るところを見られたのだろう。
それも、ベティの教育係も務める筆頭侍女に。
「……これが殿下に対してどれだけの裏切り行為になるのかわかっていらっしゃるの!?」
「わかっています。俺はあの方に忠誠を捧げた……未来の王妃様でいらっしゃるベアティミリア様はこの命に代えても守る方です」
王太子であるクラウディアードは将来立派な王となる。
同じ年であるのに知慮が深く寛容なクラウディアードは尊敬の対象だ。
そして自分自身がここにいるという理由でもあった。
「それ以上に、感情はないとでも?」
「……もちろんです」
「でしたら今後はベティミリア様へ話しかけるのは勿論のこと、感情を見せることも禁じます」
突然の要求に思考が止まり少年の表情が固まる。
侍女は少年の様子に気づきながら、あえて厳しい態度のまま言葉を重ねた。
「でなければ、このことを殿下に申しあげ貴方は故郷に帰っていただくことになります」
……強制帰還になることは少年にもわかっていた。それでも少女から離れることはできなかった。
わかっていたからこそ、今どうするべきかも分かっている。
約束を忘れなければ、大丈夫だと自分自身に言い聞かせて。
言い聞かせなければ、心は納得できなかった。
一瞬だけ少年の脳裏に白い花に囲まれて微笑む少女が過る。
手の届かない、高嶺の花だということは初めから知っていたはずだ。
この日以来、少女の秘密の園に少年が訪れることはなくなった。
ここでの誓いは誰にも知られないまま、少女は美しく成長し、少年は強くなっていく。
花は咲き誇ったまま。
主役が出てこずで大変申し訳ございません。