変化の兆し
ここから逃げなくては、と強く思う。いや、今になっては『思っていた』のだろう。
アルディアンナはこの宮に、何のために連れてこられたかを知ってからずっと追い立てられていた。
幼いときの記憶が、アルディアンナを追い詰める。
森の屋敷に住んでいた貴婦人との勉強会はアルディアンナにとって楽しく為になったものだが、同時に貴族社会への恐れも抱かせた。
昔に比べれば緩くなった、とは言うもののやはり因習は根強く残る。
貴婦人はアルディアンナのことを想うからこそ厳しく躾けたが、それが仇になったのが唯一の誤算だろう。
そんな貴婦人の思惑に反してアルディアンナは恐れを捨てきれずにいる。
その結果が逃避へと駆り立て、多くの人を巻き込んでしまった。
側仕えの侍女になったリザだけはアルディアンナを宥めすかしても、決して逃避への手助けはかさなかった。
だからこそ、今もなおアルディアンナの側にいる。
「アルディアンナ様」
つい心地よさに負けて転寝をしていたのだろうか。
呼ばれた声につられるようにアルディアンナはゆっくりと瞼を開く。
体を包み込むようにして作られているチェアはアルディアンナのお気に入りだ。
「リザ?」
「お休みのところ申し訳ございません。陛下がお見えになっておりますが、よろしいですか?」
傍らのリザは気遣うように伺う。
夢から覚めたアルディアンナは今までのことを含め申し訳ない気持ちになる。
小さく応諾の意を伝えると、優しいまなざしで微笑んだ。
リザが隣の間へと行ったのを見届けると、アルディアンナはチェアから立ち上がる。
相手はよく知った人でも、国王陛下だ。
座ったままでは失礼にあたるだろう。
その本人は、リザと入れ替わるようにすぐに入ってきた。
相変わらずの目も眩む美貌に、アルディアンナは慣れない。
「すまない、寝ていたか」
「転寝だったから」
気恥ずかしそうに笑うと、クラウディアードは表情を柔らかくした。
その表情になると昔の面影が見える。
王としての顔ではなく、アルディアンナのよく知った幼馴染の顔にほっとするのは秘密だ。
クラウディアードはアルディアンナの手を取り、ソファへと誘導する。
座っても手は離さず、二人の距離は近いままだ。
クラウディアードの空いている方の手が、ゆっくりと髪を撫でてそのまま頬にすべる。
一連の動作はいつもの通りだが、いつまでたってもアルディアンナは恥ずかしく慣れない。
俯いてしまいたいところだが、真顔で翳りのさしたような瞳のクラウディアードから目が離せなかった。
「アディに見せたいものがある」
そういって手を離し、懐から何かを取り出す。
若草色の封筒に封された蝋印は紛れもなくアルディアンナの実家の家紋だった。
印に気付くとアルディアンナは思いもよらず封筒を差し出してきた人物を見つめる。
戸惑うアルディアンナの視線を受け止め、固く無表情だったがやがて苦笑へと変えた。
クラウディアードはできるだけ優しく、穏やかに言葉を紡ぐ。
「クレイレ子爵から、アディへの手紙だ……今まで見せることはできなかった」
もし見せてしまったらアルディアンナは益々故郷への思慕が募るのではないか。
なにより益々恨まれて拒絶されるのが嫌だった。
しかしあのベアティミリアとの茶会以来、アルディアンナは少しづつ変わっていった。
拒絶することもなくクラウディアードを受け入れてくれる。
何気ない話に微笑みを見せてくれることも多くなったし、触れても拒むことがなくなった。
なにもかも厭世的になっているのではなく、前向きな様子でもあった。
だからこそ、今手紙を見せようと思ったのだ。
「今まですまなかった……本来ならもっと早く」
隣に座るクラウディアードの手にそっと触れる。
アルディアンナは穏やかに微笑みながら、首を横に振った。
「ううん……中を見てもいい?」
クラウディアードは勿論というように頷く。
それを確認してから、手紙の封をあけた。
生真面目な父の整った字を見るとひどく懐かしい気持ちがこみ上げる。
手紙の内容は、ごく当たり障りのないものだった。
時候の挨拶の一文から始まり、元気にしているかと家族として心配しているという。
子爵として自治領の最近の様子や、家族の様子も簡潔に記されている。
最後に、こちらで拠り所をなくしたらいつでも帰ってきてもよいという文があった。
その文に自然豊かな故郷の思い出がアルディアンナの胸に占める。
帰りたい、けれど今はまだ帰らない。
こみ上げてくる涙を堪えながら、そっと手紙を折りたたんだ。
「……帰りたいか?」
ずっと見守っていたクラウディアードは、静かに問う。
ただ素直にその言葉に驚いて顔を上げる。
アルディアンナの視線の先には、どこか憂いを湛えた表情があった。
「私は……クラウの傍にいるよ」
「アディ……」
「だって約束、したから」
二つの忘れられない約束。
本来なら叶うはずもなかった約束で、これからも本当は叶わないはずの約束。
覚悟はできていない、でもアルディアンナはもう逃げるのはやめた。
そう思えたのも、ベアティミリアに会ってからだ。
彼女とは、短い時間だったがよく話をしたと思う。
まさに王妃に相応しい人であり、だけど一人の『女性』であった。
花が綻ぶようでいて、どこか哀しげに佇むベアティミリアが強く印象に残る。
とうとう聞けなかった彼女の願いが、唐突にアルディアンナは気になった。
「……ねえ、クラウ。ベアティミリア様の願いってなに?」
ずっと気になっていた。
あの茶会より、一月は立とうとしている。
その間ベアティミリアとの茶会が開かれることはなかったし、立場上手紙でやり取りということもなかった。
「それは……直接ベアティミリアから聞いたほうが良い。もしアディさえ良ければもう一度会わないか?」
「いい……の?」
クラウディアードがベアティミリアと会うことに乗り気ではなかったのは知っている。
時折見える複雑そうな表情で知ってはいたが、どうして乗り気ではないかとまでは分からない。
分からないが、アルディアンナはその提案には驚いた。
同時に畏れ多くも感じる。
ベアティミリアはまさしく最上の人であったから。
「ああ、きっとベアティミリアも望んでいる……動き出すのを」
最後のほうの言葉は小さく、だけどはっきりと聞こえた。
何を、とは問わなかった。アルディアンナとて解る。
そしてベアティミリアがアルディアンナに期待していることも薄々感じてはいた。
それがおそらく願いに続くのだろう。
少しずつ、何かが変わっていくことを。
遅くなってしまい大変申し訳ございません。
この話より、新しい章となります。
まだまだ展開があっちこっちと飛びますが、お付き合いいただけますと幸いです。