攫われかけたわたしを助けてくれた完璧な領主様に、溺愛されています。ただ一つ——わたしが歩くたび、屋敷じゅうの風鈴が、まるで先回りするように鳴るのです
その手が、わたしの口を塞ごうとした、そのとき。
「——彼女から、手を離せ」
低く、けれど氷のように鋭い声が、夜の路地に響いた。
次の瞬間、わたしを攫おうとした男たちは、風のように現れた誰かに、あっという間に地に伏せられていた。
腰が抜けて座り込んだわたしの前に、その人は、そっと膝をついた。
「もう、大丈夫だ。……間に合って、よかった」
月明かりに浮かんだのは、息を呑むほど整った顔立ち。
淡い金の髪と、空色の瞳。
この地を治める若き領主、ローウェン・アシュクロフト様だと、わたしはあとから知った。
「お怪我は? どこか、痛むところは」
「い、いえ。あなたが、助けてくださったから……」
「そうか。……よかった」
彼はわたしの、縄で擦れた手首を見て、痛ましそうに眉を寄せた。
そして、まるで壊れ物に触れるように、その手を取ったのだった。
「立てるかい。……いや、無理をしなくていい」
ローウェン様は、わたしの返事を待たずに、わたしを横抱きに抱え上げた。
「あ、あの、自分で歩けます」
「駄目だよ。君は、震えているじゃないか」
言われて初めて、わたしは、自分の膝が笑っているのに気づいた。
攫われかけた恐怖が、今ごろになって、じわりと込み上げてくる。
「……こわかったね。もう、大丈夫だから」
彼の声は、低くて、あたたかかった。
その胸に抱かれていると、不思議と、震えが少しずつ、おさまっていった。
* * *
傷を癒すため、わたしはローウェン様の夏の離宮で、療養させていただくことになった。
真夏の離宮は、うだるような暑さだった。
けれど、不思議と、館の中はいつも涼やかだった。
軒という軒に、硝子の風鈴が吊るされていて。
わずかな風にも、ちりん、ちりん、と、涼しげな音を立てるのだ。
「素敵ですね、この風鈴」
わたしがそう言うと、ローウェン様は嬉しそうに目を細めた。
「気に入った? 南の国から、たくさん取り寄せたんだ」
「こんなにたくさん……。暑さも、忘れてしまいそうです」
「君が心地よく過ごせるなら、いくらでも増やすよ」
離宮に着いた初日。
わたしが客間で心細くしていると、ローウェン様は、たくさんの本と、花と、菓子を運ばせた。
「退屈させたく、ないんだ。……何か、足りないものは?」
「いいえ。むしろ、多すぎるくらいです」
「そう? じゃあ、もっと持ってこよう」
「ふふ、ローウェン様ったら」
困ったように、けれど嬉しそうに笑うわたしを見て、彼も、ほっとしたように微笑んだ。
その笑顔が、あんまり穏やかで。
わたしは、この人になら、心を許してもいいのかもしれない、と思った。
ローウェン様は、言葉のとおり、わたしを甘やかした。
朝は、わたしの好きな果実の水菓子。
昼は、いちばん風通しのいい部屋の、いちばん涼しい席。
夜は、眠るまで、静かに本を読み聞かせてくれる。
「どうして、こんなに良くしてくださるのですか」
「君を助けられて、僕は、本当に嬉しかったんだ」
彼は、わたしの髪をひと房、指に絡めて、囁いた。
「もう二度と、君を危ない目には遭わせない。……それだけを、決めているんだよ」
その声があんまり優しくて、わたしの胸は、じんと熱くなった。
——その夜のことだった。
ひとりきりの寝室で、まどろみかけたとき。
ちりん、と。
枕元のほうで、風鈴が、ひとつ鳴った。
「……あら。風なんて、ないのに」
窓は、閉めきっていた。
けれど、それを確かめる前に、わたしは深い眠りに落ちてしまった。
きっと、気のせいね。
そう思うことにして。
* * *
離宮での日々は、砂糖菓子みたいに甘かった。
そして、ひとつだけ、不思議なことがあった。
わたしがどの部屋へ行っても。
わたしが扉を開けるより先に、その部屋の風鈴が、ちりん、と鳴るのだ。
まるで、わたしが来るのを、知っていたみたいに。
「ローウェン様。また、風鈴が、わたしより先に鳴りました」
「ふふ。まるで、道案内みたいだろう?」
「はい。おかげで、迷子になりません」
わたしが笑うと、彼も優しく笑った。
「そう。……君がどこにいるか、いつでも分かるように、ね」
ある昼下がりのことだった。
わたしが図書室へ行こうと廊下を曲がると、その先の扉の風鈴が、ちりりん、と鳴った。
そして扉を開けると、中には、もう冷たい果実水の用意がしてある。
「まあ。どうして、わたしが図書室に来るって、分かったのですか」
「言っただろう? 鈴が、教えてくれるんだ」
ローウェン様は、いつのまにか、わたしの背後に立っていた。
「暑いのに、よく歩いてきたね。……ほら、冷たいうちに、お飲み」
「ローウェン様は、魔法使いみたいです」
「そうだね。……君のためだけの、ね」
彼はそう言って、やわらかく目を細めた。
不思議なのは、それだけではなかった。
わたしが庭で足を滑らせかけると、どこからともなく、ローウェン様が現れて、支えてくれる。
わたしが高い棚の本に手を伸ばせば、彼はもう、隣に立っている。
「ローウェン様は、どうしていつも、こんなにちょうどよく来てくださるの?」
「君のことが、心配で仕方ないからね」
彼は、わたしの手から本を取って、手渡してくれた。
「君が呼ぶより先に、僕には、分かるんだ。……君に、何かありそうなときは」
その言葉を、わたしは、この上ない優しさだと思った。
こんなに大切に想ってもらえるなんて。
わたしは、しあわせ者だ。
夏の盛りは、日ごとに、暑さを増していった。
けれど、ローウェン様のいる離宮だけは、いつも、嘘みたいに涼しかった。
わたしが少しでも汗ばめば、彼はどこからともなく、冷たい手ぬぐいを差し出してくれる。
「顔が、赤いよ。……水を、飲んだほうがいい」
「ローウェン様は、本当に、よく気がつきますね」
「君のことなら、どんな小さな変化も、見逃さないからね」
彼はそう言って、微笑んだ。
その言葉の意味を、わたしは深く考えず、ただ、くすぐったく笑っただけだった。
* * *
けれど、夏が深まるにつれ。
風鈴の音は、少しずつ、わたしの中で、別の色を帯びていった。
風のない、蒸し暑い夜。
窓を閉めきった寝室で、わたしは、じっと耳を澄ませた。
ちりん。
……ちりん。
どこかで、風鈴が、鳴っている。
風もないのに。
「……ねえ。風がなくても、風鈴は鳴るものなの?」
翌朝、わたしは世話係の老女に、そのことを尋ねてみた。
彼女の、皺だらけの手が、ほんの一瞬、止まった。
「……さあ。わたくしには、聞こえませんけれど」
「そう……。気のせいかしら」
「アデル様。どうか、あまり……お気になさいませんよう」
老女は、それきり、口をつぐんでしまった。
その日の夕方、湯浴みをしているときだった。
湯気のこもる浴室の、高い小窓のところ。
そこにも、小さな硝子の風鈴が、ひとつ吊るされているのに、わたしは気づいた。
ちりん。
わたしが湯を使う音に、そっと重なるように、その鈴が鳴る。
わたしは、なぜだか、肩まで湯に沈めて、身を縮めた。
……気のせい、よね。
こんなところにまで風鈴があるのも、きっと、少しでもわたしが涼しく過ごせるようにという、あの人の心遣いなのだ。
そう、思うことにした。
そういえば、と、わたしは思う。
湯浴みをしているときも。
眠りに落ちる、その間際も。
いつも、どこかで、あの涼やかな音が、かすかに鳴っている気がするのだ。
まるで、わたしがどこにいても。
ひとりきりのときでさえ、誰かが、寄り添っているみたいに。
「ローウェン様。夜、風もないのに、風鈴が鳴るのは、どうしてでしょう」
あるとき、わたしは思いきって、尋ねてみた。
ローウェン様は、ほんの一瞬、手を止めて。
それから、いつもの優しい笑みで、わたしの頬を撫でた。
「夜は、風の向きが変わるからね。……気になるなら、鳴らないようにしようか?」
「いいえ。むしろ、あの音があると、なんだか安心して、眠れるんです」
「そう。……それなら、よかった」
彼は、どこか満たされたように、目を細めた。
——その日、離宮を訪ねてきた老紳士が、お茶の席で、ふと漏らした。
「しかし、領主様も、変わられましたなあ」
「変わられた、というのは?」
「ええ。あの、あなたが攫われかけた騒ぎ以来ですよ。……人が、変わったように、あなたのことばかり」
老紳士は、朗らかに笑っていた。
けれど、その言葉は、なぜだか、わたしの胸の奥に、小さな棘のように残った。
その夜、わたしは、寝台の中で、ぼんやりと考えた。
人が変わったように、わたしのことばかり。
——それは、いけないことなのだろうか。
こんなにも、誰かに深く想われることが。
分からなかった。
ただ、風鈴が、ちりん、と鳴るたびに。
胸の奥が、あたたかいような、それでいて、少しだけ、ざわつくような。
その両方が、いつも、いっしょに、やってくるのだった。
* * *
眠れない夜だった。
風もないのに、また、鈴が鳴っている。
わたしは、その音に誘われるように、寝室を出た。
廊下の奥、ローウェン様の書斎の扉が、細く開いて、淡い光が漏れていた。
そっと、覗き込む。
そして、わたしは、息を呑んだ。
書斎の壁一面に、数えきれないほどの、硝子の風鈴が吊るされていた。
その一つ一つから、細く光る糸のようなものが伸びて。
椅子に座ったローウェン様の、指輪へと、繋がっている。
彼は目を閉じて、じっと、何かに耳を澄ませていた。
いいえ。
耳を澄ませ、そして——見て、いた。
風鈴の、ひとつひとつが映すものを。
館じゅうの、あらゆる場所を。
「……アデル?」
彼が、ふいに目を開けて、振り返った。
その空色の瞳が、わたしを捉えた瞬間、ふっと、安堵に緩む。
「どうしたの、こんな時間に。……眠れなかった?」
「ローウェン様。この、風鈴は……」
わたしの声は、少しだけ、震えていた。
「これは、いったい、何なのですか」
ローウェン様は、静かに立ち上がって、わたしの前に来た。
そして、壊れてしまいそうな顔で、微笑んだ。
「……君を、守るためのものだよ」
「守る……?」
「あの夜、僕はあと少しで、君を失うところだった」
彼の手が、わたしの頬を、そっと包んだ。
「もう二度と、あんな思いはしたくない。……君を、一秒たりとも、見失いたくないんだ」
その手が、微かに震えていた。
「だから、僕は、どこにいても、君を見ていられるようにした。……気持ち悪い、と思うかい」
「君に嫌われても、仕方ないと思っている。……普通じゃ、ないものね」
彼は、自嘲するように、そう言った。
けれど、その手は、すがるように、わたしの頬から離れなかった。
わたしは、首を横に振った。
——だって、この人は。
わたしを喪いかけた恐怖から、まだ、抜け出せずにいるのだ。
そのことが、ただ、痛いくらいに伝わってきて。
「思いません。だって、それは……わたしを、大切に想ってくださっている証、でしょう?」
わたしがそう言うと、ローウェン様は、泣きそうな顔をした。
そして、崩れるように、わたしを抱きしめた。
「……ありがとう。ありがとう、アデル」
その腕の中で、館じゅうの風鈴が、いっせいに、涼やかに鳴った。
まるで、彼の安堵を、うたうみたいに。
その夜、わたしは、ローウェン様の腕の中で、久しぶりに、深く眠った。
まどろみの中で、館じゅうの風鈴が、ちりん、ちりん、と、優しく鳴っているのが聞こえた。
その一つ一つが、わたしを見守る、彼の目であり、耳であることを。
わたしは、まだ、知らなかった。
ただ、その音は、どこまでも涼やかで、あたたかくて。
わたしは、世界でいちばん安全な場所にいるのだと、そう思って、微笑んだ。
* * *
夏の終わりに、わたしとローウェン様は、静かに婚約した。
館は、相変わらず、涼やかな風鈴の音に満ちている。
そして、わたしはもう、その音を、こわいとは思わない。
だって、その音がするたびに、思うのだ。
ああ、わたしは今、この人に、見守られているのだ、と。
婚約してから、ローウェン様は、前よりずっと、よく笑うようになった。
夏の庭で、二人、冷たい果実水を飲みながら。
「ねえ、ローウェン様。ひとつ、お願いがあるんです」
「なんだい。何でも、言ってごらん」
「この風鈴、わたしたちの寝室にも、ひとつ、吊るしてもいいですか」
わたしがそう言うと、彼は、驚いたように目を見開いた。
「……いいのかい。君は」
「はい。だって、あなたの優しさの音ですもの」
その瞬間の、ローウェン様の顔を、わたしは一生、忘れないだろう。
泣き笑いのような、それでいて、この世でいちばん幸せそうな、顔だった。
「アデル」
その夜、寝室で、ローウェン様はわたしを腕の中に抱きながら、名を呼んだ。
「なんですか?」
「怖くは、ないか。……こんな僕で」
「いいえ」
わたしは、彼の胸に、頬を寄せた。
「不思議ですね。あなたといると、わたし、どこにいても、ひとりぼっちじゃない気がするんです」
ローウェン様の腕に、ぎゅっと、力がこもった。
「ああ」
彼は、わたしの髪に、そっと口づけた。
「君はこれから先も、決して、ひとりにはならないよ。……僕が、そばにいる。いつも、どこにいてもね」
その約束が、どれほど途方もなく、どれほど深いものなのか。
——わたしは、生涯、知らないままだった。
けれど、それでよかったのだと思う。
だってわたしは、どこにいても、ひとりきりの夜さえ。
この人に見守られて、こわいくらいに、幸せなのだから。
その夜も、どこかで、涼やかに。
ちりん、と、夏の風鈴が、鳴った。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。蜜月 憂です。
今作から、"夏の音"をテーマにした新シリーズを始めました。第一弾は、風鈴。
ローウェンが、どんな想いであの鈴を鳴らし続けているのか――アデルはそれを知らないまま、涼やかな音に包まれて、今日も幸せに笑っています。
彼女が生涯、本当の意味で"ひとりきり"になることがないと知っているのは、読んでくださったあなただけ。
「ゾクッとして、キュンとする」を楽しんでいただけたなら、★やブックマーク、ご感想が、次を書く力になります。




