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攫われかけたわたしを助けてくれた完璧な領主様に、溺愛されています。ただ一つ——わたしが歩くたび、屋敷じゅうの風鈴が、まるで先回りするように鳴るのです

作者: 蜜月 憂
掲載日:2026/07/10


その手が、わたしの口を塞ごうとした、そのとき。


「——彼女から、手を離せ」


低く、けれど氷のように鋭い声が、夜の路地に響いた。


次の瞬間、わたしを攫おうとした男たちは、風のように現れた誰かに、あっという間に地に伏せられていた。


腰が抜けて座り込んだわたしの前に、その人は、そっと膝をついた。


「もう、大丈夫だ。……間に合って、よかった」


月明かりに浮かんだのは、息を呑むほど整った顔立ち。


淡い金の髪と、空色の瞳。


この地を治める若き領主、ローウェン・アシュクロフト様だと、わたしはあとから知った。


「お怪我は? どこか、痛むところは」


「い、いえ。あなたが、助けてくださったから……」


「そうか。……よかった」


彼はわたしの、縄で擦れた手首を見て、痛ましそうに眉を寄せた。


そして、まるで壊れ物に触れるように、その手を取ったのだった。


「立てるかい。……いや、無理をしなくていい」


ローウェン様は、わたしの返事を待たずに、わたしを横抱きに抱え上げた。


「あ、あの、自分で歩けます」


「駄目だよ。君は、震えているじゃないか」


言われて初めて、わたしは、自分の膝が笑っているのに気づいた。


攫われかけた恐怖が、今ごろになって、じわりと込み上げてくる。


「……こわかったね。もう、大丈夫だから」


彼の声は、低くて、あたたかかった。


その胸に抱かれていると、不思議と、震えが少しずつ、おさまっていった。


* * *


傷を癒すため、わたしはローウェン様の夏の離宮で、療養させていただくことになった。


真夏の離宮は、うだるような暑さだった。


けれど、不思議と、館の中はいつも涼やかだった。


軒という軒に、硝子の風鈴が吊るされていて。


わずかな風にも、ちりん、ちりん、と、涼しげな音を立てるのだ。


「素敵ですね、この風鈴」


わたしがそう言うと、ローウェン様は嬉しそうに目を細めた。


「気に入った? 南の国から、たくさん取り寄せたんだ」


「こんなにたくさん……。暑さも、忘れてしまいそうです」


「君が心地よく過ごせるなら、いくらでも増やすよ」


離宮に着いた初日。


わたしが客間で心細くしていると、ローウェン様は、たくさんの本と、花と、菓子を運ばせた。


「退屈させたく、ないんだ。……何か、足りないものは?」


「いいえ。むしろ、多すぎるくらいです」


「そう? じゃあ、もっと持ってこよう」


「ふふ、ローウェン様ったら」


困ったように、けれど嬉しそうに笑うわたしを見て、彼も、ほっとしたように微笑んだ。


その笑顔が、あんまり穏やかで。


わたしは、この人になら、心を許してもいいのかもしれない、と思った。


ローウェン様は、言葉のとおり、わたしを甘やかした。


朝は、わたしの好きな果実の水菓子。


昼は、いちばん風通しのいい部屋の、いちばん涼しい席。


夜は、眠るまで、静かに本を読み聞かせてくれる。


「どうして、こんなに良くしてくださるのですか」


「君を助けられて、僕は、本当に嬉しかったんだ」


彼は、わたしの髪をひと房、指に絡めて、囁いた。


「もう二度と、君を危ない目には遭わせない。……それだけを、決めているんだよ」


その声があんまり優しくて、わたしの胸は、じんと熱くなった。


——その夜のことだった。


ひとりきりの寝室で、まどろみかけたとき。


ちりん、と。


枕元のほうで、風鈴が、ひとつ鳴った。


「……あら。風なんて、ないのに」


窓は、閉めきっていた。


けれど、それを確かめる前に、わたしは深い眠りに落ちてしまった。


きっと、気のせいね。


そう思うことにして。


* * *


離宮での日々は、砂糖菓子みたいに甘かった。


そして、ひとつだけ、不思議なことがあった。


わたしがどの部屋へ行っても。


わたしが扉を開けるより先に、その部屋の風鈴が、ちりん、と鳴るのだ。


まるで、わたしが来るのを、知っていたみたいに。


「ローウェン様。また、風鈴が、わたしより先に鳴りました」


「ふふ。まるで、道案内みたいだろう?」


「はい。おかげで、迷子になりません」


わたしが笑うと、彼も優しく笑った。


「そう。……君がどこにいるか、いつでも分かるように、ね」


ある昼下がりのことだった。


わたしが図書室へ行こうと廊下を曲がると、その先の扉の風鈴が、ちりりん、と鳴った。


そして扉を開けると、中には、もう冷たい果実水の用意がしてある。


「まあ。どうして、わたしが図書室に来るって、分かったのですか」


「言っただろう? 鈴が、教えてくれるんだ」


ローウェン様は、いつのまにか、わたしの背後に立っていた。


「暑いのに、よく歩いてきたね。……ほら、冷たいうちに、お飲み」


「ローウェン様は、魔法使いみたいです」


「そうだね。……君のためだけの、ね」


彼はそう言って、やわらかく目を細めた。


不思議なのは、それだけではなかった。


わたしが庭で足を滑らせかけると、どこからともなく、ローウェン様が現れて、支えてくれる。


わたしが高い棚の本に手を伸ばせば、彼はもう、隣に立っている。


「ローウェン様は、どうしていつも、こんなにちょうどよく来てくださるの?」


「君のことが、心配で仕方ないからね」


彼は、わたしの手から本を取って、手渡してくれた。


「君が呼ぶより先に、僕には、分かるんだ。……君に、何かありそうなときは」


その言葉を、わたしは、この上ない優しさだと思った。


こんなに大切に想ってもらえるなんて。


わたしは、しあわせ者だ。


夏の盛りは、日ごとに、暑さを増していった。


けれど、ローウェン様のいる離宮だけは、いつも、嘘みたいに涼しかった。


わたしが少しでも汗ばめば、彼はどこからともなく、冷たい手ぬぐいを差し出してくれる。


「顔が、赤いよ。……水を、飲んだほうがいい」


「ローウェン様は、本当に、よく気がつきますね」


「君のことなら、どんな小さな変化も、見逃さないからね」


彼はそう言って、微笑んだ。


その言葉の意味を、わたしは深く考えず、ただ、くすぐったく笑っただけだった。


* * *


けれど、夏が深まるにつれ。


風鈴の音は、少しずつ、わたしの中で、別の色を帯びていった。


風のない、蒸し暑い夜。


窓を閉めきった寝室で、わたしは、じっと耳を澄ませた。


ちりん。


……ちりん。


どこかで、風鈴が、鳴っている。


風もないのに。


「……ねえ。風がなくても、風鈴は鳴るものなの?」


翌朝、わたしは世話係の老女に、そのことを尋ねてみた。


彼女の、皺だらけの手が、ほんの一瞬、止まった。


「……さあ。わたくしには、聞こえませんけれど」


「そう……。気のせいかしら」


「アデル様。どうか、あまり……お気になさいませんよう」


老女は、それきり、口をつぐんでしまった。


その日の夕方、湯浴みをしているときだった。


湯気のこもる浴室の、高い小窓のところ。


そこにも、小さな硝子の風鈴が、ひとつ吊るされているのに、わたしは気づいた。


ちりん。


わたしが湯を使う音に、そっと重なるように、その鈴が鳴る。


わたしは、なぜだか、肩まで湯に沈めて、身を縮めた。


……気のせい、よね。


こんなところにまで風鈴があるのも、きっと、少しでもわたしが涼しく過ごせるようにという、あの人の心遣いなのだ。


そう、思うことにした。


そういえば、と、わたしは思う。


湯浴みをしているときも。


眠りに落ちる、その間際も。


いつも、どこかで、あの涼やかな音が、かすかに鳴っている気がするのだ。


まるで、わたしがどこにいても。


ひとりきりのときでさえ、誰かが、寄り添っているみたいに。


「ローウェン様。夜、風もないのに、風鈴が鳴るのは、どうしてでしょう」


あるとき、わたしは思いきって、尋ねてみた。


ローウェン様は、ほんの一瞬、手を止めて。


それから、いつもの優しい笑みで、わたしの頬を撫でた。


「夜は、風の向きが変わるからね。……気になるなら、鳴らないようにしようか?」


「いいえ。むしろ、あの音があると、なんだか安心して、眠れるんです」


「そう。……それなら、よかった」


彼は、どこか満たされたように、目を細めた。


——その日、離宮を訪ねてきた老紳士が、お茶の席で、ふと漏らした。


「しかし、領主様も、変わられましたなあ」


「変わられた、というのは?」


「ええ。あの、あなたが攫われかけた騒ぎ以来ですよ。……人が、変わったように、あなたのことばかり」


老紳士は、朗らかに笑っていた。


けれど、その言葉は、なぜだか、わたしの胸の奥に、小さな棘のように残った。


その夜、わたしは、寝台の中で、ぼんやりと考えた。


人が変わったように、わたしのことばかり。


——それは、いけないことなのだろうか。


こんなにも、誰かに深く想われることが。


分からなかった。


ただ、風鈴が、ちりん、と鳴るたびに。


胸の奥が、あたたかいような、それでいて、少しだけ、ざわつくような。


その両方が、いつも、いっしょに、やってくるのだった。


* * *


眠れない夜だった。


風もないのに、また、鈴が鳴っている。


わたしは、その音に誘われるように、寝室を出た。


廊下の奥、ローウェン様の書斎の扉が、細く開いて、淡い光が漏れていた。


そっと、覗き込む。


そして、わたしは、息を呑んだ。


書斎の壁一面に、数えきれないほどの、硝子の風鈴が吊るされていた。


その一つ一つから、細く光る糸のようなものが伸びて。


椅子に座ったローウェン様の、指輪へと、繋がっている。


彼は目を閉じて、じっと、何かに耳を澄ませていた。


いいえ。


耳を澄ませ、そして——見て、いた。


風鈴の、ひとつひとつが映すものを。


館じゅうの、あらゆる場所を。


「……アデル?」


彼が、ふいに目を開けて、振り返った。


その空色の瞳が、わたしを捉えた瞬間、ふっと、安堵に緩む。


「どうしたの、こんな時間に。……眠れなかった?」


「ローウェン様。この、風鈴は……」


わたしの声は、少しだけ、震えていた。


「これは、いったい、何なのですか」


ローウェン様は、静かに立ち上がって、わたしの前に来た。


そして、壊れてしまいそうな顔で、微笑んだ。


「……君を、守るためのものだよ」


「守る……?」


「あの夜、僕はあと少しで、君を失うところだった」


彼の手が、わたしの頬を、そっと包んだ。


「もう二度と、あんな思いはしたくない。……君を、一秒たりとも、見失いたくないんだ」


その手が、微かに震えていた。


「だから、僕は、どこにいても、君を見ていられるようにした。……気持ち悪い、と思うかい」


「君に嫌われても、仕方ないと思っている。……普通じゃ、ないものね」


彼は、自嘲するように、そう言った。


けれど、その手は、すがるように、わたしの頬から離れなかった。


わたしは、首を横に振った。


——だって、この人は。


わたしを喪いかけた恐怖から、まだ、抜け出せずにいるのだ。


そのことが、ただ、痛いくらいに伝わってきて。


「思いません。だって、それは……わたしを、大切に想ってくださっている証、でしょう?」


わたしがそう言うと、ローウェン様は、泣きそうな顔をした。


そして、崩れるように、わたしを抱きしめた。


「……ありがとう。ありがとう、アデル」


その腕の中で、館じゅうの風鈴が、いっせいに、涼やかに鳴った。


まるで、彼の安堵を、うたうみたいに。


その夜、わたしは、ローウェン様の腕の中で、久しぶりに、深く眠った。


まどろみの中で、館じゅうの風鈴が、ちりん、ちりん、と、優しく鳴っているのが聞こえた。


その一つ一つが、わたしを見守る、彼の目であり、耳であることを。


わたしは、まだ、知らなかった。


ただ、その音は、どこまでも涼やかで、あたたかくて。


わたしは、世界でいちばん安全な場所にいるのだと、そう思って、微笑んだ。


* * *


夏の終わりに、わたしとローウェン様は、静かに婚約した。


館は、相変わらず、涼やかな風鈴の音に満ちている。


そして、わたしはもう、その音を、こわいとは思わない。


だって、その音がするたびに、思うのだ。


ああ、わたしは今、この人に、見守られているのだ、と。


婚約してから、ローウェン様は、前よりずっと、よく笑うようになった。


夏の庭で、二人、冷たい果実水を飲みながら。


「ねえ、ローウェン様。ひとつ、お願いがあるんです」


「なんだい。何でも、言ってごらん」


「この風鈴、わたしたちの寝室にも、ひとつ、吊るしてもいいですか」


わたしがそう言うと、彼は、驚いたように目を見開いた。


「……いいのかい。君は」


「はい。だって、あなたの優しさの音ですもの」


その瞬間の、ローウェン様の顔を、わたしは一生、忘れないだろう。


泣き笑いのような、それでいて、この世でいちばん幸せそうな、顔だった。


「アデル」


その夜、寝室で、ローウェン様はわたしを腕の中に抱きながら、名を呼んだ。


「なんですか?」


「怖くは、ないか。……こんな僕で」


「いいえ」


わたしは、彼の胸に、頬を寄せた。


「不思議ですね。あなたといると、わたし、どこにいても、ひとりぼっちじゃない気がするんです」


ローウェン様の腕に、ぎゅっと、力がこもった。


「ああ」


彼は、わたしの髪に、そっと口づけた。


「君はこれから先も、決して、ひとりにはならないよ。……僕が、そばにいる。いつも、どこにいてもね」


その約束が、どれほど途方もなく、どれほど深いものなのか。


——わたしは、生涯、知らないままだった。


けれど、それでよかったのだと思う。


だってわたしは、どこにいても、ひとりきりの夜さえ。


この人に見守られて、こわいくらいに、幸せなのだから。


その夜も、どこかで、涼やかに。


ちりん、と、夏の風鈴が、鳴った。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。蜜月 憂です。

今作から、"夏の音"をテーマにした新シリーズを始めました。第一弾は、風鈴。

ローウェンが、どんな想いであの鈴を鳴らし続けているのか――アデルはそれを知らないまま、涼やかな音に包まれて、今日も幸せに笑っています。

彼女が生涯、本当の意味で"ひとりきり"になることがないと知っているのは、読んでくださったあなただけ。

「ゾクッとして、キュンとする」を楽しんでいただけたなら、★やブックマーク、ご感想が、次を書く力になります。


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