エピローグ:ウィリアム・ウェスト
カーテンの隙間から射し込む朝の光でウィリアムは目を覚ました。腕の中で眠るメイベルを起こさないようにしながら、彼女の寝顔を覗き込む。
幸せそうに眠る彼女を見て、自分も自然と笑っていることに気がついた。
そうしながら、彼女との出会いを思い出した。光と暗黒が、一度に押し寄せたような、当時のことを。
ふいに帰ってきた母が、産まれたばかりの赤ん坊を置いて二度と帰らなかった時、ウィルは十一歳だった。
幼い弟と妹をとにかく養わなくてはと、目についた仕事はなんでもやった。危険な仕事も、暗い仕事も、とにかく金さえ得られればとひたすらに行った。
自分が盗人にならなかったのは、運が良かっただけだと、ウィルはそんな風に考えていた。
頼れる者もなく、食うものにいよいよ困ったその日に、転機が訪れたのだ。
馬車から降りてきた貴族が持つ金時計をくすねようとして捕まったのは、十二歳の時だった。それがインターレイク家の当時の当主夫妻だ。
ウィルの運命は、この時永遠に変わってしまった。
夫妻は幼いウェスト家の兄弟を哀れみ、自らの領地で仕事を与えることにした。全ての孤児を憐れんでそうしたわけではない。たまたま自分が盗みを行おうとしたから、掴み取った幸運だった。
インターレイク家の領地には、三人の子供たちがいた。子供たちは地方でのびのびと育てたいという、夫妻の意向により、彼らは王都ではなく領地で育ったようだ。
ウィルは新しい使用人だと、兄妹に紹介された。
長男のジャスティンはウィルと同じ年だった。貴族にしては珍しく、親しげにウィルを迎え入れた。
次女のレティシアは五歳で、母親の陰に隠れてこちらの様子を窺っていた。
もう一人、六歳の長女がいるのだと言われたが、庭での遊びに夢中で、呼んでも戻ってこないらしい。
お会いできたらご挨拶しますと伝えると、夫妻は優しく微笑んだ。礼儀正しい態度を取るウィルを、夫妻は好ましく思ってくれていたようだった。
メイベルに会ったのは、キースとマーガレットを預け、庭の案内を別の使用人から一人で受けていた時だ。
庭の片隅に小さな少女がうずくまっていたため、ウィルは危うく躓きかけた。寸前のところで回避したが、自らは勢い良く地面に尻もちをついた。
庭の花をつんでいた少女は驚いたように立ち上がり、まじまじとウィルを見て、顔を真っ赤にし、興奮した様子で言う。
「まあ! 男の子がいるわ!」
「メイベルお嬢様。本日より働くことになったウィリアム・ウェストですよ」
使用人にそう紹介を受け、名乗ろうとした瞬間に、彼女はウィルに飛びついた。
「あなた、すごくカッコいい! だいすきよ!」
そう言ってからぱっと身を離し、手に持っていた花をウィルに差し出したのだ。
「わたくしの旦那さまにしてあげるから、将来ケッコンしましょう!」
「そうですね、機会があれば」
ウィルはそう答えた。ままごとの中の世界だと、当然理解していた。明日にはもう忘れているだろう。
だが「約束よ」と、そう言ってはにかみ笑う彼女を、まるで教会にある天使の絵のようだと、ウィルは思った。
驚くことにメイベルの恋心は、予想に反して一日経っても、一週間経っても、数ヶ月経っても変わらなかった。夫妻が娘を嗜めるのを諦めるほど、メイベルはウィルの後を付いて回っていた。彼女は幼く、ウィルは恋心など抱きようがなかったが、妹のように大切に思った。
メイベルの屈託のない笑顔は、いつもウィルの心を和ませた。楽しげにはしゃぐ彼女は、さながら太陽を人にしたような存在のように思えた。だからその笑顔を、守りたいと思うことはごく自然な感情なのだと、ウィルは自分にそう言い聞かせていた。
生活は順調で、憂いはなかった。その日までは――――。
暗い夜だった。雨が降っていた。王都では、運が悪ければ命を落とすと言われる熱病が流行していて、インターレイク家夫妻は、患ってしまった。
他の者に感染らないようにと、夫妻の意向で寝室が隔離された。それを聞きつけたサイラス・ハイマーが、見舞いにと屋敷を訪れた。
あの日に、二度目の転機が訪れたのだ。
ウィルの脳裏に、その光景が蘇った。
泣き叫ぶメイベル。
肌が土気色の当主夫妻。
食事が床に転がっていた。
何が起こったのか、すぐに分かった。
彼女の笑顔が、損なわれることなどあってはならない。ウィルの頭には、そのことばかりが渦巻いた。
「ウィル、起きていたんですの?」
腕の中で眠っていたメイベルが、もぞりと動き目を開けた。
「何をしていたの?」
甘い声で彼女は囁く。
「あなたを見つめていました」
そう答えると、満足そうに目を閉じて、ウィルの首に手を回し、口づけをせがむ。
彼女の期待に応えると、彼女は声を出して笑い、再び夢を見んと目を閉じた。
メイベルは、ウィルにとってあまりにも愛おしい存在だった。
恋だと自覚したのは、随分と後になってからだ。美しく成長を遂げたメイベルを、度々城で見かけていた。彼女の笑顔を見るたびに、その奥に隠された影に気が付き胸が疼いた。幼い頃のような笑顔をまたして欲しい、そう思うことの恥もまた、同時に自覚した。おこがましいことだ。身の程知らずというものだ。
だが彼女はやってきた。目の前にやってきて、ウィルが諦めかけるたびに正しい場所へと引き戻した。
彼女への想いが募るほどに、引き返すことのできない泥沼に、足を踏み入れていくようだった。
彼女に、隠していたことがある。
キースは当時幼く、今になってはインターレイク家で働いていたことも、朧気に覚えている程度だ。あの日に何が起こったかを、正確に知っている人間はウィルだけになった。
あの日、インターレイク家の夫妻に毒を運んだのは、キースではなかった。
あの日――。
熱を出したマーガレットを、ウィルは医者に見せに行った。流行り病であったら、処置をしなければ赤ん坊などたちまち死んでしまう。
結果として妹の熱は数時間で下がり、安心して屋敷の自室に戻った時だ。キースが困ったような表情を浮かべて一人座っていた。
ウィルは妹の世話のため、弟にその日の仕事を頼んでいたのだ。終わらせるには妙に早い。疲れて戻ってきたのならば、妹の無事も確認できたため、自分が再び仕事に戻ると告げると、弟は首を横に振る。
――おじょうさまに、食事をとられた。
それだけを、キースは言った。
どうやら両親に会えない寂しさで、メイベルかレティシアがキースが運ぶ食事を奪い、自ら届けに行ったようだ。ならば礼を言いにいかなくてはと、ウィルは夫妻の寝室に向かった。
そこで、目撃した。
すでに事切れていた夫妻と、その遺体の前で大泣きするメイベルの姿を。
どうすれば良いのか、すぐに分かった。
ウィルは、魔術を使い、メイベルの記憶を奪った。
彼女を彼女の部屋の前に寝かせ、自分は夫妻の寝室に戻り、使用人にその死を告げた。
自分が食事を運んだのだとウィルは言ったが、サイラス・ハイマーはウィルが妹を医者に連れて行ったことを知っていた。弟を庇っているのだろうと、彼はそう思っていた。ならばそう思わせておこうと、ウィルは考えた。
彼女と弟を天秤にかけたわけではない。そうでは決してないはずだが、ウィルは真相を闇に葬り去ることを決意した。
誰よりも健やかにいなくてはならない存在を守れるのならば、自分が泥をかぶればいいだけだと、本気でそう考えたのだ。
だからメイベルは、未だに知らない。
ウィルが実際には、誰の代わりに裁きを受けるつもりでいたのか。
誰のために命を投げ出そうとしていたのか。
知ったら彼女は許さないだろうし、怒りもするだろう。真実を知れば、深く傷つくことにもなるかもしれない。
万が一にでも、彼女の笑顔が損なわれることがあってはならなかった。
だって彼女は悪女だから。
誰よりも笑顔のよく似合う、ウィルの愛おしい悪女であるからだ。
「何を考えているのですか?」
閉じていたはずの大きな瞳が、再びウィルを見つめていた。
「あなたのことを考えていました」
「本当?」
期待の込もったまなざしが、ウィルに向けられる。
「俺はいつだって、あなたのことばかり考えていますよ」
その柔らかな髪を撫でると、彼女は穏やかに笑う。
まさしく、ウィルの中にはメイベルばかりが存在していた。彼女のことばかり考えていた。
彼女のために死ぬことができれば、自分がこの世に存在する意味があったと思えた。そのつもりだった。それは後ろ暗い幸福であった。
だが彼女とともに生きることができるのならば、それは死よりも遥かに、遥かに美しいことだ。
「わたくし、あなたの為ならなんだってできます。愛していますから」
それはむしろ自分の方だと、ウィルは思った。
自分の中に存在する憧れと、愛情と、懐かしさと、そうして未来の希望が、全てメイベルに向けられているのだから。これほどまでに途方のない愛を知ったら、彼女は受け止めきれないかもしれない。
「俺もあなたの為ならなんだってできますよ。愛していますから」
あなたが考えているよりも、深く、深く、愛していますから。愛はもとより、死も生も、己の存在全てを捧げていますから。
聞いたメイベルは、やはり満足そうに微笑んだ。
〈おしまい〉
最後までお読みいただきありがとうございました!
10万字くらいのお話の練習をしようと思って書いた作品でございました。お楽しみいただけていたら嬉しいです。
そういえばサイラスおじさんはハイマー家に婿養子に入ったからインターレイク家を名乗っていないという設定でしたが、説明せずに終わってしまいました。修正してどこかに入れます。
一つ前に書いた、「イリス、今度はあなたの味方」が割と激しい作品だったので、次は心が削られない作品にしようと思った本作でもありました。だいぶ回復したので、来年は激しい話が書けそうです。
すごくどうでもよい話ですが、「断頭台のロクサーナ」の元々の話では、モニカという登場人物はメイベルという名前でした。ロクサーナは生存伝説のあるロシア皇女に寄せてアナスタシアという名前でした。
でもちょっと現実がちらついてしまうかなと思って、ロクサーナに改名したのです。そしてメイベルも合わせて「断頭台のロクサーナ」の元にした短編「百万回生きた悪役女王」の主役モニカに改名しました。
そういうわけで自分の中で「メイベル」という名前の女の子が存在してしまっていて、なんとか彼女の話を書いてみたいなと思って、本作を作ってみました。そんな経緯のある物語でもありました。
本年はこれで最後の投稿です。
では皆様、よいお年を。来年もまたよろしくお願いします。




