捜02-07 杜不愆
高平の郗超、字は嘉賓。二十歳を回った頃、重病を得た。廬江の杜不愆は幼い頃母方の祖父である郭璞より易や卜を学んでおり、多くの予言を的中させてきた。
郗超は、ものは試しと杜不愆に占わせてみた。すると杜不愆が言う。
「卦言を踏まえれば、そなたの病は問題なく癒えよう。そのためにも、東北三十里にある上官姓の家にてオスのキジを得、東簷の下に籠を置き、中に係留しておかれよ。帰還してより九日後の景午の日の正午、必ずや野生のメスキジが飛び来たり、交尾をなそう。終えて後、二羽は共に飛び去ろう。それが起きて二十日と経たず、そなたの病は癒えることとなる。なおこれは一種の吉兆でもある。そなたが八十に差し掛からんとする頃に位人臣を極めることとなるのだ。ただし、メスのみ飛び去り、オスが留まったときには、病がひとまず収まるに過ぎぬ。年八十の半ばにして、名声も位もまた失おう」
この頃の郗超は病膏肓といった状態であり、いつその命を失うとしてもおかしくはなかった。このため笑いながら答える。
「もし八十の半ばまで保つのであれば御の字だ。ひとまず収まるだけだとて、この人生、どう満たしきれようというのだ」
とは言え郗超はこの占断を信じようともしなかった。あるものに勧められたためその言葉に従うこととしたが、本当に上官氏の家でキジが飼われていた。そして景午の日に至れば、郗超が南軒の下にて臥せりつつも籠を眺めていたところに、正午、本当にメスのキジが飛んできて籠の中に入り、オスキジとつがった。その後メスキジは飛び去ったが、オスキジは留まったままだった。
郗超は嘆息して言う。
「管輅、郭璞でさえ、ここまで際立った予言をなし得ただろうか?」
郗超は間もなくして病が癒えたが、四十に至り、中書郎として死んだ。
高平郗超,字嘉賓,年二十餘,得重病。廬江杜不愆,少就外祖郭璞學易卜,頗有經驗。超令試占之。卦成,不愆曰:「案卦言之,卿所恙尋愈。然宜於東北三十里上官姓家,索其所養雄雉,籠而絆之,置東簷下。卻後九日景午日午時,必當有野雌雉飛來與交合;既畢,雙飛去。若如此,不出二十日,病都除。又是休應,年將八十,位極人臣。若但雌逝雄留者,病一周方差。年半八十,名位亦失。」超時正羸篤,慮命在旦夕,笑而答曰:「若保八十之半,便有餘矣。一周病差,何足為淹。」然未之信。或勸依其言,索雉果得。至景午日,超臥南軒之下觀之。至日晏,果有雌雉飛入籠,與雄雉交而去。雄雉不動。超歎息曰:「管、郭之奇,何以尚此?」超病逾年乃起,至四十,卒於中書郎。
(捜神後記2-7)
わ、わぁーお……。
郗超についてはこの話を拾っておきたいですね。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054888401275
「名と位をともに失う」のは、捜神後記だと単に死ぬこととして書かれますが、史上では「簒奪謀議に深く関与した、ほぼ逆臣」的な扱いとなります。ただ郗超って後世人たちにもめっちゃ愛されてたらしくて、全然悪し様に書かれるのを見たことがありません。まぁなにせ主君たる桓温が逆賊として語るには魅力的すぎますからねえ。世説新語も、なかなか桓温への愛着を捨てきれてないですしね。