第四章 嘉助と幸吉 その一
三人の主人公嘉吉の仕事を、紹介しています。綿作という、いわば最先端の商品作物を作る、現場になります。儲かるのですから、いろんな工夫が、為されていく様子が伺えます。
この織場は、嘉助が作業場を借りて作ったものだ。
ある不作の年、綿作百姓の老夫婦が、肥料の借金を支払えなくなった。
跡を継ぐ息子も早くに亡くなり、働き手もいない。
結局田畑を手放さざる得なくなった。
土地の所有権は『沽券』という権利証があり、それを売買した。
そう、沽券にかかわる、という慣用句はここからきている。
沽券は、あくまで商人や武士・寺社までのもので、百姓は「田畑永代売買禁止令」により、勝手に売買できない。
そこで、この田畑の所有権を村役に移し、その後沽券に記した所有者を書き換え、売買したそうだ。
実際は田畑を質に入れた挙句、返済できずに質流れになって手放す方が、多かったようだが。
この夫婦の場合は庄屋預かりとなったが、家屋は田畑でないため、人に貸すことはできる。
そこで嘉助は、綿の作業場もあり、そこそこ広かった家屋を、織場として借り請けた。
夫婦にはそのまま住み続け、管理してもらっている。
綿作りは高い肥料に、きつい労働がつきもので、その上天候に左右されやすく、決して楽な農業ではない。
収穫前の綿を担保に、仲買人から借金して肥料を買う。
やがて収穫と同時に、仲買人が実綿を取り上げ、右から左へと売られてしまう。
このように、農民が自転車操業のような事態に陥ることは、ざらにあったらしい。
娘たちも収穫の一部の綿で織物を織り、家の稼ぎ手を担った。
一人で一疋=二反分(着物二枚分)を六日で織った、というのだから相当な重労働だ。
実綿を売るより反物のほうが、二倍の収益が見込めたという。
事実、江戸後期になるほど、綿の出荷より木綿(綿製品、ここでは反物)の出荷の方が多く、大半を占めるまでになっている。
これは河内木綿の評価が、全国でも上品(一級品)とされ、太い糸で厚く織られて丈夫であると、重宝されたためだった。
当時は繊細なおしゃれ着より、労働着としての丈夫さに価値があったのだろう。
使えば使うほどに光沢も生まれ、味わい深く風合いに優れた着物だったようだ。
お上からの規制さえなければ、製品で売る方が単価が高く、高い収益が見込めるのは当然のことだった。
各家にはそれぞれに縞帳と言う、織物の柄のオリジナルデザイン帳が受け継がれている。
一族総出で、織物作りに力を注いでいたことが伺える。
織り手である娘や嫁のプレッシャーは、大変なものだったろう。
息抜きできて、多種多様にある織道具も貸し出してくれる。その上、お互いへの切磋琢磨にもなる。
身近で織り手たちを見てきた嘉助は、初期投資は痛かったものの、きっと良いように作用するはずと、敢えて乗り出した事業だった。
若い娘同士、嫉妬・口喧嘩・男の取り合い等、よくもまあ毎日いとまもなく喧嘩騒動を引き起こすものだ。
が、それもよいスパイスとなって、皆生き生きと働いてくれる。
息の詰まる実家や嫁ぎ先よりも、同世代の女同士といるほうがよっぽど息抜きできる。
嘉助は思い切って初めてよかったと感じていた。
もちろん最初は、親世代からかなりの反発をうけた。
自分たちの縞帳の絵柄が盗まれる。
反物が、嘉助に取り込まれ、買いたたかれるに違いない。これでもかと文句が出た。
嘉助は、それぞれの反物の出来に合わせ、等級をつける。
その上で、客や小売りのニーズに合わせ、品を選び売りさばく。
その売値からこちらの取り分まで、すべてオープンに、明瞭会計を徹底した。
やがて娘たちの反発も手伝ってか、親たちの不満の声も無くなっていった。
むしろ歓迎する家も出て来る始末だ。
なにしろ、面白いように生産性が上がっていったのだから。
熟練者や技能の上達者から学べる。
嘉助からは、誰の柄が気に入られたか、生の情報も入ってくる。
するとまた励みになって、新しいアイデアも浮かんでくる。良い循環が生まれたようだった。
加えて、反物の品質管理に、目が行き届くのもよかった。
これまでは織ることに必死で、出来上がったら、手垢や手油まみれの、薄汚れた反物も少なくない。
勿論、川に晒して洗い上げるが、仕上がりの状態が良いに越したことはない。
売り物という意識も低かった。
自分自身を清潔に保ち、織場の清掃にも気を配る大切さが分からず、商品管理の意識も無い。
まだ、マニュファクチュアと言う形態もない時代。
だが、確実にこの河内やその周辺には分業化、商品化の意識がすすんでいた。
もう少し後の時代になるかもしれませんが、工場制手工業や、仕事の分業や細分化が行われるようになっていきます。繰り綿の専業、織り人、仕立て、卸し商、小売業などなど、家内で全て作り上げる時代から、専門業者に分かれる時代へと変わっていきます。