第三章 国産綿織物の始まり その三
江戸時代の貨幣制度から、貿易事情の問題、そしていよいよ綿作りの話にはいります。
フー、やっとこさです。ながながとすみませんでした。
でもこれからは、日本の台所といわれた大坂の面目躍如となります。
京都の西陣も頑張ります。
という事で、金銀銅の産出量は十七世紀には、世界最高水準にまでに上がった。
江戸時代、江戸には佐渡を擁する金座があり、金本位制を敷く。
一方上方では、石見銀山を管理する住友中心に銀座がつくられ、銀本位制を敷いた。
一国の中で通貨制度が分かれるのは、極めて珍しい。
豊臣政権下、秀吉の経済重視の町づくりの元に敷かれた銀本位制を崩すのは、江戸幕府でも最後までかなわなかった。
ところで、銅貨というと一文銭とか銭形平次で知られるが、銭座という。
なら銅座は?というと、ちゃんと長崎にある。
銅貨ではなく銅の輸出用インゴット(棹銅)を扱っていた。
そう、これが清やオランダが、喉から手が出るほど欲しがった交換品だったのだ。
特殊な精錬技術で、銅の純度99%の上に緑青に変化しにくい、あかがね色の赤銅インゴッ|ト《・である。
この技術は日本にしかなかったそうだが、十七世紀末には、日本の銅産出量は世界一を誇る。
大坂でも住友グループの元となる泉屋など、採掘・銅吹きの精錬・輸出などにたずさわった。
1715年(正徳四)の大坂の輸出入の品目覧を見たが、一位から五位まで木綿と銅が占めている。
この特製インゴットで、清やオランダから生糸、綿糸を輸入していた。
ところが、1685年(貞享二年)に外国貿易制限令が出され、それ以降生糸の輸入は減少の一途をたどることになる。
何故、こうなったのか…?
これには、先ほど触れた『遠町深鋪』が大きく関わっていた。
採掘事業は採算が取れない。
しかも、産出量が大幅に落ちてきている。
一方で、輸出と生産の減少により、値上がりし続ける銅の値も抑えねばならない。
しかも前にも触れた鄭成功が清に敗れたことで、生糸を手に入れる事は一層むずかしくなった。
清側の心象が悪すぎる!
結果、幕府の方針で銅の海外流出が、制限されることになってしまう。
1685年(貞享二) 幕府は養蚕奨励政策に転換し、西陣の生糸不足を、日本の和製糸でまかなうよう指示をだす。
一方木綿は?と言えば、この頃はまだオランダを通じて、細々と輸入され続けていた。
西陣は、国産の太くて値が高い綿糸より、輸入物の細く上質の糸で、高級な木綿織りを作りたい。
しかも、ジャワ産の綿糸など外国産は、国産に比べて半値近く割安だ。
だが、西洋の植民地政策で、綿畑はほとんど砂糖などのプランテーションに取って代わられてしまう。
綿は輸入せずとも、占領地のインドから入ってくるのだから。
そういえば、植民地の島を舞台にした、『南太平洋』と言う有名なミュージカルもあったな。
登場人物のフランス人農園主が、何を作っていたか覚えてないが、広大な農園を経営しているシーンが印象的だった。
やがて、ジャワ産の綿糸の輸入は、途絶えてしまう。
しかもなぜか、幕府は1628年(寛永五)に衣服制限令なるものを出して、農民・漁民の服装を布や木綿に限定してしまった。
その結果、衣服制限令と養蚕奨励政策二つの制限政策により、早急に日本全国で純国産の、上質な生糸と木綿の生産に、取り組まざる得なくなった。
それまで一手に織物業を独占していた西陣にとって、正に死活問題だ。
上質の生糸も綿糸も十分に入ってこない!!
そこで幕府は、西陣の織物師や布地の専門家を全国に派遣し、栽培にはじまり一から全て指導するように、大号令を出す。
というわけで、やれ桑を植えて蚕を飼え、田んぼで綿を作れと、各藩も引き込み全力で、発破をかけることとなるわけだ。人騒がせな……
面白い逸話に、丹後ちりめんは、西陣に入り込んだ職人が、命がけで縮緬の撚糸技術と織機を故郷に盗んできて……えーっ……持ち帰って始まったとされている。
本当かどうか確実ではないそうだが……
それ程、当時の西陣にとって、織物の技術は最高機密の独占事業だったのだろう。
幕府の命令とはいえ、技術の情報公開は断腸の思いだったに違いない。
だがこのおかげで、日本全国に織物産業が本格的に発展していくのだから、無暗やたらと門外不出を主張して、隠しっこしてはいけません。
情報公開も場合によっては大事!
こうして、明治の紡績業発展の下地が始まるのである。
なのに…この後、幕府と綿作百姓の間で綿をめぐって、仁義なき戦いが始まるのである。なぜか⁇
第三章はこれで終わりです。
この後、第四章では再び河内の若造たちが、登場します。
お楽しみに