第二十一章 三郎衛門の掌(たなごころ) その二
新兵衛は一息つくと、突然皆の方へ向いて手をつき、
「突然の訪ないにもかかわらず、皆さん気い良うワイを迎えて頂いて、ありがたいことだん。
三郎衛門はんの前に顔出せる身や無いんはよう分ってんよ。
そやけど、どうしても一言詫びを入れさせていただきたい思うて、七兵衛はんには無理言うて連れて来てもろたんだん」
新兵衛のいつに無くかしこまった姿に、皆一様に慌てて手をふりながら、
「新兵衛はん、手えあげたってよ。なあんもあんたに頭下げられて、詫びを入れてもらわんとあかんような事、あれへんがな。なあ、みんな」
と、政三郎が皆の方を振り返ると、それを受けて嘉平も、
「そうだす。何で新兵衛はんが詫び入れる、て言いはるのか見当はつくけど…
三郎衛門はんは、なあんにも気にしてはりまへんでしたで」
「そやそや!みなとうに済んだこっちゃがな。訴願も無事通った事やし、仏はんには何よりの供養やんけ。もう手え上げてんけ。終わり良ければ総て良しや」
新兵衛は涙ぐみながら顔を上げ、
「ワイは何にも分っとらへん、唐変木やった。
いきって、三郎衛門はんにつっかかって……
偉そうに惣代から引きずりおろしたった、言うて天狗になっとった。穴があったら入りたい」
と皆を見回し、土下座しながら、
「あの時は皆さん、さぞはらわた煮えくりかえる思いで帰らはったんやろな。
倒れそうな三郎衛門はん抱えて……どないに悔しい思いで……どうぞ思う存分ワイをののしってくれ、どついたってくれ。アホなワイは三郎衛門はんの思いも分らんと、自分の天下やとエエ気になっとったのや」
と、すすり泣いている。
皆は、突然のことにどう返したものか、と戸惑い身動きもとれない。
確かに千吉や嘉平には、あの時の仕打ちに忸怩たる思いはある。
とはいえ、その恨みは自分たちのものではない。政三郎そして三郎衛門のものである。
その当事者たちがあの後、その事に一言も触れることなく平然としていたのだ。
自分たちが、文句の一つも言いに行きたい、という雰囲気ではなかった。
すると七兵衛が皆に代わり、
「もうエエ、新兵衛はん手エ上げなはれ。
あんたがそないな風に土下座したままでは、皆どないしたらエエか困ってるやないか。
その様子やと三郎衛門はんの思惑は、もう分ってんのやろ。
この子らもな、あの時こそ三郎衛門はんの腹の中はなんも知らされず、悔しい思いしたかもしらん。けどな、今は違う。
あんたがここで詫び入れたんでな、互いのもやもやも晴れてわだかまりも流れた。手打ちにするんが、何よりの弔いになったやろ。
正直、今は互いがいがみおうてる場合やない。
皆が力合わせて、この古市を守っていかなあかん大事の時や。三郎衛門はんはな、この古市が立ち行かんようになることを一番心配してたんや。
『国訴』などと大仰な名前頂いて、皆盛り上がってるけどな。
その挙句に所帯がこない大きいなってしもて……こんな小さな古市では、真っ先に押しつぶされたやろ。
わしのとこの三日市村でも、かかる費用が大きなりすぎて……正直しんどい。
古市の申し出はありがたかったのや。まあ結局やることは一緒やしな。
古市の十五村ぐらいやったら、さほどの手間には無らん。そやけどなあ……」
新兵衛の方を見やって苦笑しながら、
「血の気の多い新検の連中を、納得させる算段には頭絞ったで。
三郎衛門はんもな、
ええい、もうエエ!ワシは惣代やめる!
て、こいつは何言い出すんやと、びっくり仰天したわ。
今思えば、もうだいぶ身体がくたびれてたのやなあ。
自分には時間が無いとわかってたのやと思う。最後の仕事とばかりに、あのごり押しや。
思うところはいっぱいあったと思うけどな。本人はあれが精一杯やったのや。
お前ら若造では通らなんだこの案は、三郎衛門はんしか出来ひん。
それを思うて、堪忍したってヤ」
後から聞かされたとはいえ、改めて聞く千吉や嘉平らは当時を思い出し、涙ぐんでいる。
ましてや初めて聞く新兵衛は、号泣して泣き崩れ、
「庄屋を務めさしてもらう今になって、ようやっと分りましたのや。
村の政は綺麗ごとではすまん。何よりも先立つものがない。
あの時三郎衛門はんが、ごり押しでも三日市村に古市を抱え込んでもらわんかったら、今頃どうなってたか。
ワイは通りもせん義を振りかざし、先頭に立って皆を扇動して…
恐ろしいことに、もしかしたら古市を潰してたやもしらん。
ホンマおおきに。済んまへん。堪忍してや」
最後は、ひたすら訳も分らぬことをつぶやいて謝っている。
その姿に皆のしこりも取れ、心が洗われていくようだった。
そこへ女房衆が、ニコニコ気を利かせて酒と肴を運んできた。
「ささ、湿っぽい話はそこまでにして、どうぞ一杯召し上がってよ。
三郎衛門はんは賑やかなお席がお好きやったよって」
「そやそや、ここは仏はんの前や。酒飲んで騒がな。
罰当たりが!いつまで待たすんじゃ、言うて怒って化けて出てくるで。なあ」
政三郎が何気に仏を下げつつ、皆を宴席にいざなった。
こいつもエエ跡取りに育ちよったで、最後の〆はこうでなければ閉まらんわい。
ハハ!我ながらうまい洒落や。またどこぞで使たろ。
七兵衛は心の中で呟きつつ、満足げに盃を傾けた。
春の宵、酒が進むにつれ、宴は賑やかに続いていく。この後、摂津・河内・和泉を巻き込んで国訴は一層激化していくことになる。
そうして人々の個々の思いとはかけ離れ、化け物のような巨大な組織へと変貌していった。
ひとまず国訴騒動はこれにて終了です。史実は本文にあるように、ますます巨大化して激化していきますが、数頼みとも読まれてしまい、必ずしも訴訟が通る事ばかりではありませんでした。
この後少し時間を置いて最終章に入ります。