第十九章 村方騒動―下剋上― その二
盛大な法要も終わって客も帰り、身内同然の三家族で残って昔話に花を咲かせていた所へ、突然二人の客が訪ねてきた。
しかもこの二人…少なくとも一人は、彼らにとって思いもよらぬ珍客である。
三日市村の惣代七兵衛と、新しく古市郡の惣代となった新兵衛だった。
この新兵衛、亡くなる寸前まで三郎衛門と浅からぬ縁がある。
新兵衛はいわば、この「文政六年の一千七ヵ村国訴」の裁決直前、三郎衛門を惣代から引きずり下ろした中心人物である。
この葬儀の時にはすでに、百姓側の訴えが全面的に認められる形で勝訴となっていた。
しかしその場にこの国訴の立役者ともいえる三郎衛門の姿は無く、家督の代替わりも終えて隠居し、表舞台からも退いている。
それには、古市村中の百姓を巻き込み村の存亡にもかかわる、下剋上ともいえる騒動が大きく関わっていた。
村の庄屋をまかされる者は、石高の高い家が庄屋株という免許のような物を持ち、代々それを引き継いできた。
この株には、古検株と新検株に、各家に代々継がれる株とがある。
この『検』とは正に検地のことである。
古検は太閤検地(一五八二~)、新検とはこの畿内は延宝年間(一七世紀後半)に行われた大規模検地のことで、随時全国で行われていった。その後江戸時代が終わるまで、二度と検地は実施されなかったという。
米は貢租である。
申告している税収にあたる石高が、容赦なく裸同然に明るみにされたうえ、各地で行われている不正申告や横領が公になってしまう。
当然、各地の百姓、代官、領主の接待賄賂や妨害・横やりが後を絶たず、実施するのは困難を極めた。戦乱にすらなりかねない。
島原の乱はこれに当たるとも言われている。よほどの強い指導力と実行力無くしては成しえない施策であった。
前にも触れた荻原重秀は、この難題の検地事業に携わったことで実力を認められ、出世街道に乗った一人である。
この時できた検地帳を管理して、年貢の取り立てや貯蔵を任されたのが村役人たちである。
中でも、トップに立って領主や村民にかわり、今でいうところの税を取り立てて管理する村長に当たるのが庄屋である。
古検株を持つ者は、古くから代官や領地の役人とのつながりがある。必然的に家格の高いものが選ばれることになった。
一方の新検株は比較的新しく成り上がった家という印象になってしまう。
時代を経るにつれ村内に、この古検と新検株を持つ家同士が、綿を商うなどして小金を稼いで力をつけた小百姓の台頭もあり、張り合って対決するようになった。
庄屋(東は名主)は、他村や代官・役人との折衝、年貢の徴収と管理等々、前にも触れたが農作業の片手間で出来る仕事ではない。
ましてや対話する相手はそれなりの地位の者たちばかりなので、普段からの人脈・教養などの政治力がなければならない。
それゆえの庄屋株である。この株を先祖代々所持することを村民から認められるか、買い上げる力があるかが証左となった。
この頃は凶作続きで、田沼意次もその後を継いだ松平定信も飢饉で苦労している。
この頃には村政の経常費が、困窮する百姓たちの生活を直撃していた。
国訴の規模が大きくなるにつれ、各村々に掛かる負担も大きくなった。わずか十五村の古市村にとっても、少なからず打撃となったろう。
すでに古市の人々にとって、綿や木綿の自由販売が出来るかどうかは死活問題となっている。自分たちの権利を守る国訴を批判するわけにはいかない。自ずと惣代の適正が非難の対象となった。
・一か年ごとに年貢を公開して、清算する。
・村の必要経費や臨時費用の引き下げ倹約。
・村役人の特権の制限ひいては反対運動。
・大坂出張費を十匁から半分に減額。等々…
庄屋への要求がつきつけられている。
この古市でも、綿商人兼業百姓が増えるにつれ、新興勢力がその資金力を背景に古株の庄屋に対抗するようになっている。じわじわと、三郎衛門の足元が揺るぎ始めていた。
その急先鋒が、小百姓から商いでのし上がった新兵衛だ。やり手でカリスマもあったのだろう。職人・小商人はじめ小作貧農層元締めの与兵衛・忠兵衛兄弟まで取り込み、弱者多数派のリーダーとして立ちはだかった。
少しややこしい話になってしまいました。
が、簡単に言うと百姓の世界も、自分の才覚で商いを成功し力をつけてのし上がっていく者、
古い権力にしがみついて勝手するうちに不正を突き上げられ衰退していく者、
それぞれの地位がひっくり返って身分制度が壊れていった、ということです。
実際、小作貧農たちも堂々と意見し、村政に物申す時代になっていきます。