第十九章 村方騒動―下剋上― その一
一八二三年(文政六年) 再び大きな訴訟が、三郎衛門たちの目前に迫ってきた。
もちろんこれまでに、「恐れながら」の訴えを起こすような騒動が無かったわけではない。
とはいえ、三郎衛門たち綿作百姓にかぎっていえば、繰り綿延べ売買所に次ぐ大きな壁が再び立ちはだかってきた。
その壁の名を三所綿問屋と言う。
一難去ってまた一難。あまい汁には次々と虫たちが寄ってくるものである。
この甘い汁とは綿であり、甘い汁を好むのは虫だけとは限らない。鳥や爬虫類も集まり、それを狙う動物も集まることになる。
人も形は違えど同じ営みを生きる生き物に過ぎない、とつくづく思い知らされる。
案外と現代の経済問題も社会問題も、これで全て説明がつくのかもしれない。
とはいえ今回は、弱い立場の百姓が強大な権力の大坂商人と大坂奉行を相手取り、厳しい戦いを強いられた以前とは、大きく異なったようだ。
もはや綿作百姓は搾取されるだけの弱い立場ではなくなり、大阪商人もそのことに気づきつつあった節がある。
唯一の納税者という国政の担い手としての矜持、団結して大きな勢力を動かせるノウハウ等々。
対等、あるいはそれ以上の戦力でもって、大国ロシアに挑むウクライナ、六・七十年代に大国アメリカに真っ向から挑んだベトナムのように、ハチの一刺しが大きな力となっていた。
今この頃の記録を見直しても、三郎衛門たち百姓もお奉行さん側の幕府も、その自覚は生まれていないようだが……
それでも、このうねりは確実に、日本の近世を終わらせ、明治維新という近代へと向かうエネルギーになったと確信できる。
前にも触れたが、突然外国船がやってきて脅威となり、挙句に薩摩・長州をはじめとする諸藩勢力が倒幕に邁進していっただけで、維新という革命を起こす要因となった……はずがない。
津波は目の前にせまりくる巨大なものは目立つが、そのはるか向こうから小さな波が少しづつ押し寄せてくるものはわかりずらい。それが集まりやがて大波となって海岸を削り、国の形すら変えてしまうのだ。
物語は一八二四年(文政七年)の五月初めにさかのぼる。
三郎衛門の一周忌法要を終え、嘉助と捨吉に三郎衛門の長男政三郎、嘉助長男久平と幸吉長男千吉らが、思い出話に興じていた。
三郎衛門は自身最後の戦いとなる、文政六年(一八二三)の一千七か村の「国訴」の裁許前に亡くなっている。
三郎衛門達が始めたこの訴訟は、後に「国訴」と名付けられるほどの規模を誇り、大きく成長していた。
とは言え、この時三郎衛門は御年七十四歳、嘉助も幸吉もとうに代替わりして、嫡男の久平と千吉が各々の父になりかわり三郎衛門を補佐している。むしろ、補佐兼介護人と言った方が正しいが。
稼業と家の事は嘉助や幸吉にまかせ、あちこち走り回って多忙を極めていた。まるでかつての嘉助・幸吉のように…
三郎衛門の長男政三郎はというと、勿論父親の傍らでのほほんと、跡取りとして狸の置物のように控えている。
この跡取り……おっとりと言えば聞こえがいいが、いささか頼りない。三郎衛門とは似ても似つかぬ、穏やかでのんびりと育ちの良い坊ちゃんタイプだった。
三郎衛門さん、早くからそれを見抜いていたのか、後から生まれた喜平と千吉には町の大きな塾へ息子と共に通わせ、しっかり教育をつけさせた。
その上嫁取りまで御大自ら探し出し、お眼鏡にかなう娘を娶わせている。
嘉助や幸吉が謝礼に訪れ、
「アテらの家には、過ぎたるお家から嫁取らしてもろうて。三郎衛門はんには、身に余るお世話になって、ほんにありがとおます。」
「ほうよ!政三郎はんも、まんだ嫁取りしてへんに、ワイらの息子が先に縁組してもてエエもんかいな。なんや道理が立たんわい。」
「はっ!なあんも、余計なこと気をまわすな。わしも考えがあっての事じゃ。
政三郎の縁談もあんじょう考えとる。お前らの息子は早よ所帯もって、落ち着いた上であいつを支えてくれたらええのや。」
「なんやしらん、有り難い気持ちが無うなってきましたわ。」
「ほんまやんけ。ワイ寒気してきそうや。」
「アホ!公方様もな、賢こ無うてエエのんや。御家来衆さえ、しっかりしとったら世の中うまいこと治まるんじゃ。
庄屋もそれと一緒や。お前らの息子がしっかと働いてこそワシの家が栄え、ひいてはこの古市村も安泰ちゅうこっちゃ。」
実際、この二人の息子たちは、訴えの会合に出向く三郎衛門を実によく支えた。
阿吽の呼吸で隅々まで気を配り、良く行き届き尽くしたといえる。
何やら不穏な空気が感じられます。
公儀という政治の中心が不安定な頃、同じ様に古市村内も、新しい勢力が古い勢力に、取って代わるかのようにのし上がってきます。しかも身分の上下を越えて……
いつの時代も、新しい時代の風が嵐のように、古い価値観を壊すように薙ぎ払っていくようです。