第三章 国産綿織物の始まり その一
明治の殖産興業が世界遺産に登録されたことを、否定するわけではありません。
とはいえ、列強に追いつこうと、西洋技術や科学を必死で学び、驚異の成長を遂げた、と言いきるのは、違和感しかありませんでした。
形が違うだけで、高等数学や土木工学など優れた分野があり、西洋技術を受け入れる基盤は、十分に持ち合わせていた。というのが正解のようです。その一部分を紹介します。
第三章 国産綿織物の始まり その一
明治に入って、日本の近代化を推し進める殖産興業が始まる。
そして、あっという間に日本の紡績業は世界で隆盛を誇るようになった。
ついで、製鉄所や織機など本格的に産業革命がはじまり、日本は列強の仲間入りを果たすまでに成長していく……と、結論づけられるほど単純な話だろうか?
もちろん、西洋人の専門家を超高額給金で招き、一から西洋の科学・技術を学んで機械化に取り組んだのは事実だ。
当時の日本人が、懸命に取り組んだ努力の結晶であることに、間違いはない。
としても、日本人が優秀で勤勉だから、西洋文明を急速に吸収して近代国家の仲間入りを果たした。
そして、今じゃこの功績が世界遺産になるほどすごい偉業として評価される。
といわれても……そんな奇跡のような成功物語として祭り上げるのは、現実的だろうか。
おとぎ話や転生物じゃあるまいし…何か釈然としないのは、私だけだろうか?
これまでは、渡来人に織り方を教えてもらっても、肝心の実綿が作れないため、輸入に頼らざる得なかったと説明してきた。
実綿とは種入りの綿のことで、種を取り除いた綿毛を繰綿、綿毛を取り除いた種子を綿実と言う。スーパーで売られている綿実油は、これが原料だ。
ちなみに棉とは、植物として木になっている状態の綿を指す。
じゃ、どこからその綿を手に入れてたの?という話だが…、当たり前に、長年お隣の中国から手に入れていた。
朝貢貿易である。
中華思想(世界の中心は中国で、それ以外の国は属国ね)のおかげで、ちょっと貢物をささげに行き、ペコペコ頭を下げてたら、がっぽりお返ししてくれるのだから…日本にとっては、チョロすぎる、ありがた~い取引だ。
日本の時の権力者たちは、大いに利用させてもらった。
それこそ古代の大王から、藤原道長・奥州藤原氏・平清盛・足利義満・琉球に至るまで、とっても長い間お世話になった。
教科書にものっている。
中国は今もなおこの思想に影響され続けていると言われているが、今の情勢を見てもわかる気がする…。
とは言え、ずーっとただでもらい続けるというわけにはいかない。
何事も取引はフィフティ・フィフティが原則。
特に江戸時代に入り、オランダも取引相手に加わると、等価交換に変わらざるを得なくなった。
おいしい蜜月も終わった。
彼らは日本に何を代わりに求めたのか?
次回は幕府の立場からのお話になります。
私は、なんだかちぐはぐな、まるで焦ってドタバタしていたかのように、幕府の印象を受けるのですが……
雨降って地固まる。案外こうした方が、うまくいく良い例でしょうかね。