第十九章 天明七年 繰り綿延べ売買所廃止 その二
当時、天明の大飢饉の影響で、農村は大きく荒廃していた。
田畑を維持できずに売り払い小作に落ちたり、離村して都市へ逃れて流民になるなどの問題が、関東・東北中心に起こっている。
田沼時代からこの問題に取り組まなかったわけではない。
この問題のため、新田開発を大いに進めたが、貧富の格差が進むだけで解決には至らない。そもそも新田の開発に携われる時点で、富農か大商人なのだから。
この時代の社会構造が変革期に入り、近世から近代へと変わっていく時ということだろう。
一言でいえば、持つ者と持たざる者という経済格差が広がるにつれ、歴代の施政者たち皆が皆、年貢という厄介な税に取り組み続け、撃沈していったということだ。
上の人たちのいがみ合いはどうあれ、この政争が三郎衛門たちにはおおいに味方した。
天明七年(一七八七年)六月に松平定信が老中に就任するのだが、その年の五月中にはすでに、河内の惣代たちは再度延べ売買会所廃止訴願を提出している。
準備等を考慮すると、前年の田沼失脚からすでに動き出していたということになる。
中央の政局には、常日頃気を配り精通していたということだ。
案外外山某を通じて、奉行様からの情報があったのかもしれない。
大阪奉行という役職は、老中へと続くエリートコースの通過点らしい。
典型的な幕閣エリートコースは、奏者番(そうしゃばん)→寺社奉行→大坂城代→京都所司代→西の丸老中→本丸老中が定番だった。
奏者番とは、譜代大名から選ばれ、将軍と大名・旗本との間で拝謁や下賜品の伝達を行う言わば秘書のようなもの。
上使(高位身分に上位伝達を行う使者)も勤め、弁達に優れる頭脳明晰な人物が選ばれた。
老中という役職は四~五人が選ばれ、それぞれの仕事も様々である。
その中の西の丸老中は、主に将軍・大奥の家政を統括した。
要は家内の身の回りの世話ということだ。
なら、本丸老中は国政を預かる首相かというと、そこまでの権力者という訳でもない。
私達が時代劇などで、普段見慣れている老中がこれに当たる。
通常、老中は月当番制で城に詰める。重要事項の決定時だけは、全員集まって合議の上決めていく等、一人に権力が集中しないように配慮がなされていた。
江戸時代後半には、黒船や諸外国の開港の圧力といった重大事件が、頻発するようになる。
その為、強力な指導者の必要にせまられて、大老や老中首座(トップ)が置かれるようになっていった。
おそらくこの時の大坂城代は、まだ中央で残留している田沼派だろう。
その下の大阪奉行は、最新かつ詳しい政局をつかむ所に居り、少し鼻薬を嗅がせば、容易に情報を漏らしてくれたのかもしれない。
出世から外れそうな彼らにとり、少しでも良いポジション確保のため、これから先は何かと入用になってくる。
まさに三郎衛門たちにとって、潮目が変わり、追い風となる瞬間だった。
江戸後期、大老井伊直弼などが有名ですが、こうしてみるとかなりの強権で難しい時世を乗り切っていたことが分かります。
老中の四人制は、権力集中による独裁政治は避けられます。(あまりうまくいっていなかったことは歴史が証明していますが、自滅している人も多いですね。)
が、国の存亡の危機には、即決できる立場が必要だったのでしょう。とはいえ、直弼も暗殺されてしまいますが……
ここで言いたかったのは、当時の農民たちの政治センスです。かなりの情報力をもち、政治を深く読んでいた事に注目してください。
これが戦前までの日本人の姿だと思います。今はどうでしょう……?不安だ!