第十九章 天明七年 繰り綿延べ売買所廃止 その一
安永七年(一七七八年)繰綿延べ売買所廃止願い提出から十年後の一七八八年、天明七年の五月末、再度延べ売買所廃止訴願を提出することとなる。
訴願を初めて丁度十年後の事だった。
そのひと月後の六月十六日には判決が申し渡されている。
一七八八年十二月二十二日、繰綿延べ売買所は廃止された。訴願からわずか半年の異例の速さである。
その間の事情については、惣代の記した文書を見ても、如何に素早く処理されていったかが、詳しく残っている。
五月二十八日 摂河七百八十六か村、延べ売買所廃止訴願を大坂町奉行へ提出
奉行所より証拠提出命令
奉行所に証拠の帳面提出
奉行所より追加の証拠提出命令
大坂側の商人より書き付け提出
奉行所へ追加の証拠提出
六月十六日 判決申し渡し
十二月二十二日をもって、大坂・平野繰綿延べ売買所廃止決定。
『理由』 綿価格の騰貴(綿相場が上がる事)せしめた為。
奉行所へ請書提出
七月三十日残務処理の為、大阪に出張。
ここまでにかかった日数は、わずか五十四日である。
この急展開は如何なる所以だろうか。
かつて、若江郡惣代の平右衛門が三郎衛門に語ったように、時流の変化つまり幕府側の情勢が大きく変わったことも係わっている。幕府の財政難に大ナタを振るった田沼政治は、十代家治将軍の死とともに一気に沈んだ。
教科書は、重商主義政策による商人との癒着と賄賂が問題となり失脚したと習った。 が、そう単純な話ではなさそうで、確かに大飢饉や浅間山の噴火など、災厄も彼に味方しなかった。
とはいえ革新で開明的な政策を推し進めた老中田沼は、実力を兼ね備えた能吏だったようだ。
その証拠に天明六年八月二十七日の老中免職後も、幕閣として城に詰めている。
定信の老中就任が、翌天明七年の六月十九日、一年近くも先になったことを考えると、政権内の激しい権力闘争の末ということが正解のようだ。
次代の将軍家斉は、三卿の一つ一橋家出身で、十代将軍家治の養子であった。実は同じ三卿である田安家出身の松平定信も、同じ次の将軍有力候補の一人である。
しかし、すでに白河藩に養子に出されていた上に、幕閣の強い反対にあい、将軍になることはかなわなかった。
そこで、御三家・御三卿は、十五歳の若い家斉の補佐として、三十歳の松平定信を強力に推し進めた。
御三家とは、水戸・尾張・紀州の傍系徳川である。
これに家斉の実家一橋家も加わり、白河藩主として、政治実績も十分詰んでいた定信をぜひとも老中にしようと激しい運動を展開した。
だが、田沼派を含む幕閣・大奥がこれを強硬に反対する。
要は、御三家や御三卿たちの政権進出を阻みたい中央の閣僚と、政権中枢に勢力を伸ばしたい御三家・御三卿側との権力闘争ということである。
こういう政治的な事に、政道を正し立て直すために立ち上がったと、単純に言い切れる解答はない。
定信は田沼政治に反発して、まったく違う政策を取ったように思われているが、急激な変化はかえって逆効果になる。
今では、田沼政治を踏襲する部分も多かったというのが定説になっている。
ただし、田沼の重商主義に対し、定信が農本主義というのは本当のようだ。
どこかで聞いたような話だと思いません?
コロナや震災が起爆になって、社会が大きく変革していき、経済格差が広がっていく。
人々の不安が広がり、戦争が頻繁に起こる。歴史を見ると、時々未来の予知を見ているような気になります。