第十八章 お千代のお産 その三
幸吉は唖然とし、真っ青になって震えながら土下座した。
「赤子はええ。どうにかしてお千代を助けたってくれ。お願い致します」
「土下座されても、どれだけ金積まれてもワシの医者としての経験が言うとるのじゃ。すまんが、覚悟はしてくれ」
お千代の前で涙は見せられぬ。幸吉はお千代のそばに戻って寄り添い、そっと顔の汗を拭いてやった。
「旦那さん、すんまへん。アテに力がないばっかりに」
「何言うてんじょ。お千代は、いっつもガンバってやないけ。もうちょっとで、かわいいやや子に会えるんや。もうちょっとだけ気張ってな。ワイも傍に居てるさかい」
「かんにん。堪忍して。旦那さんにつらい思いさして。ごめんして」
「何謝ることあんのや。ワイがしっかりお千代守ってやってたら…すまん、すまんのうお千代。ワイ置いていかんといてえなあ」
たまらず、幸吉は泣きだしてしまう。
姉さん女房のお千代は、幸吉の顔をさすりながら涙をこらえていると、突然苦しみだし、
「お千代!」
「どけ!」
と、老人とは思えない力で、幸吉を跳ねとばし、
「ここで、一気に出すぞ!」
の声とともに、産婆がお千代の上に馬乗りになり、赤子を押し出し始めた。
「もう一回、お千代はん!頭が見えてるのや。もう一回踏ん張ってくれ!」
と、医者の声と共に最後の力を振り絞り、お千代は無事赤子を産み落とした。
とは言え赤子はチアノーゼで鳴き声もない。医者は赤子を逆さにつって尻を叩き、鼻に口を当て羊水を吸い出す。が、声は出ない。
もう一度逆さにして口をつけようとすると、ようやく弱々しい鳴き声がおこった。
ワッと一斉に歓声が起こる。喜びもつかの間、弱々しい赤子の様子に、必死で身体をこすって刺激を与える。
「産湯もってきたで、直ぐに浸かるけ?湯加減は見てるよって」
女衆が、湯の入った大盥を運んできた。湯を使うと、土気色の赤子の肌も赤みを帯び、赤ん坊らしくなる。 皆、ひとまずこれで一安心かとホッとした。
まずは赤子に会わせてやろうと、お千代を振り返る。が、そこには幸吉のお千代にすがる姿と、難しい顔で脈をとる医者の姿があった。
万吉とおえん、神主と嘉助もすでに家内で待機している。突然の幸吉の悲痛な呼び声に慌てて駆けつけると、医者がこちらを見て痛ましげに頭を振る。
ここにいる皆が、この状況についていけずに茫然とする中で、赤子の鳴き声だけが響いていた。
突然、万吉がおえんを蹴り上げて、ののしる声が響きわたった。
「このアマ、なにしてけつかんじゃ!こんな汚い小屋に、お千代を閉じ込めよって!お千代の代わりにお前が死んだらええのじゃ、この畜生が!」
嘉助は、こぶしを振り上げとびかかろうとする万吉を羽交い絞めして止めながら、
「万吉はん!落ち着きなはれ。仏はんの前ですで」
「ああああ!ワイが悪いのや。所帯別にしたら安心やて、よう見てへなんだ。お千代、幸吉堪忍してや、堪忍してくれ!」
万吉は腰が砕け、土間に這いつくばるように泣き崩れた。
「おとうはんの所為やない。ワイが頼んないばっかりに、もっとお千代を大事に…」その先は声にならなかった。
幸吉は、赤子の顔を見ようともせず、ひたすらお千代の髪をなで、掻き抱く。皆その姿に嗚咽が止まらない。
天明4年(1784年)十一月早朝、享年二十五歳、わずか五年の短い夫婦であった。
おえんは万吉に折檻を受けて倒れた格好のまま、うずくまっている。誰も、側に寄って大丈夫かと声をかけもいたわりもせず、気にかける様子もない。それでも文句もなく、まるでこちらが死んだかのように、微動だにしない。
すでに日が昇り始め、初霜が降りている。
だが、だれも突然の悲劇に呆然として、身動きできないようだった。
取り敢えず、ここでは仏さんが可哀そうだと嘉助とお咲が主になって、下男や女衆に祀る場所を用意するよう指示した。
「これ!しっかりしなはれ!あんさんが仏さんを祀ってあげな、お千代はんは安らかに成仏でけへんで。つらいやろけど、懇ろに弔うてあげるのも亭主の役目やないか」
嘉助は幸吉を叱咤しつつ、老医者と産婆を丁重に労い下男に送らせるなど、細々とした手配を担ってやった。
その合間には、三郎衛門へも忘れずに使いをやり、一連の事情を伝える。
早朝には、三郎衛門夫婦が駆けつけて、家人に代わり葬儀の差配を行った。
惣代自らとは、異例のことである。
幸吉一家にとっては、これからが試練になります。高持の本百姓クラスだと、母親が亡くなった赤ん坊の育児の多くは、養い親に完全にあずけて育ててもらうのが普通でしょう。
七夜の祝いまでは、出産の血を穢れとして別火の隔離生活(煮炊きを別にする)もあったそうです。男親も一緒に忌みに従ったそうで、赤子の死亡率の高さが伺えます。