第二章 河内木綿と織り場のこと その三
ここでは、綿作の難しさを伝えています。
それにしても、時代が変われば、軍事物資も変わります。
鉄砲だけでなく、戦場に最も適した衣類……戦国大名も技術開発に余念がありません。
第二章 河内木綿と織り場のこと その三
昔の人も、綿を作ろうとしなかったわけではない。高いお金を払って、糸や布地を外国から輸入しなくて済むなら、それに越したことはないのだ。
平安時代初期に編纂された史書『日本後記』によれば、8世紀頃インド人が、日本に漂着して綿の種をもたらしたのが始まりだそうだ。
当時の日本にとって、記録に残るぐらいに綿作りは、最先端技術かつ最重要産業だったのだろう。
綿の種は、命がけで持たらされたのかもしれないし、献上品だった可能性もある。
ところが、綿作は一年で消滅してしまう。
その後、再度種を中国から取り入れ、大和・紀伊・淡路・など二十数か国で栽培を試みたが、百年ほどで自然に消滅したらしい。
元々棉はメキシコからアフリカ、インドなどが主な原産だ。世界の綿作りの始まりは、紀元前8千年から5千年にまで遡るという。
暖かく雨の多い気候で、砂と礫の混じる水はけのよい、弱アルカリ性の土壌を好むそうだ。
酸性土で粘土層が多い日本の土は、向かなかった。
八世紀に日本に入ってきた頃は、渡来人の全盛期だ。
まず大和(九州という説もある)次いで河内、摂津、和泉、山城などの関西圏に勢力を広げ、たくさん住み着いている。
特に河内には、織物の職能集団が多く入った。
錦織、秦などがついた地名は今も多くある。京都の西陣は、映画村で有名な太秦の近く、秦一族が住み着いた所。
その一族から、下機あるいは居坐り機とも呼ばれ、低く坐るようにして織る機織りや道具・技法が早くから伝わっている。
日本で綿織物が栄える下地は、古代から十分にあったのだ。
ただし……技術があっても、肝心の材料が無くてはどうしようもない。
室町時代から戦国時代には、先取気鋭の大名が軍事物資として、全国で広く栽培を試みたこともあった。
保温に優れて丈夫な綿が、鉄砲と同じように、軍用として注目されたのだ。
とは言え、いくら連作に強い作物でも、風土が合わなければ、一年しか持たない。
このように日本では、幾度も試みられた綿の栽培が、全盛を誇るようになるには、江戸時代まで待たなくてはならなかった。
何故?江戸時代まで待たなければならなかったのだろう?
一つは、綿作りにはたくさんの肥料が欠かせない。ところがこの時代は、せいぜい人糞か干した雑草しか肥料はない。
そこへ江戸時代に入り、干鰯や油粕のような高成分・高品質・簡単使用の肥料が生まれた。
これを金肥と言う。読んで字のごとく、金を払って買い求めた効用の高い肥料のことである。
その干鰯や油粕のような金肥が、北前船で北から運ばれて来るようになった。
西廻り航路である。
人糞も都市からお金を払って買った。
ようやく、本格的な国産綿を生産する下地ができ上がったのだ。
そしてもう一つ忘れてはならない。
江戸初期から中期に、国産綿織物に転換せざる得なくさせる、ある国内事情が関係してくるのである。
諸説あるそうだが…。
大坂夏の陣の時、家康の本陣は河内の枚岡、豊浦村だったそうです。
そこで、端午の節句にちなんで本陣当主が菖蒲木綿と名付けて、献上します。
「勝負に勝つ!」縁起の良い名前に家康は、たいそう喜んだという逸話も残っています。
次回は、木綿がどうして広がっていったか?幕府のお話になります。