第十五章 篭絡 その一
籠絡(遠くて近きは何とやら)
寒さを感じ初めるある夜更け、三郎衛門と嘉助は顔を突き合わせて内緒話をしている。
場所は、目立たぬよう古市から少し離れた定宿の一つである。
「調べてきました」
「で、どうやった」
「へえ、先ず訴え書きを、奉行所に出す際に、何度もつき返されたようだす」
「なんでや。受け取るのを渋られたんか」
「いえ、どちらかと言うと、公事の手続きの問題やったようだす。
形式にのっとって、きちんと文書を作る事。それと添翰そえて訴えを出さんとあかんそうです」
添翰とは、直訴にならないように、村役たちの承諾書をつける事。
要は正式な訴え状である事を証明するものである。
一方の直訴は、所定の手続きを踏んでいない訴えとなり、厳しく罰せられた。
「ことに、与力の外山|はんというお方は、えらい強面のお方やそうで。
強情張って強う訴え出ようものなら、藪の中を掃除したら蛇が出ることになるぞ(突き上げられた末に動かされておるようでは、足元すくわれるぞ)と、百姓どもを脅されたそうだす」
「ほう、一筋縄ではいかんと思とったが、なかなか手ごわそうな御仁やな」
「訴えに出頭した惣代はんらは、
しょんべんちびりそうになったわ、なに言うてんねん、小便やったらまだましや、その前にこの首が飛んでまうワイ、
言うて、青息吐息で帰ってきたそうだす」
「嘉助、こりゃあ余程腹くくらんとあかんな。相手は言うても侍じゃ。
肝の座り方がちゃうわい。覚悟してかからんと、ワシらの骨も残らんぞ」
嘉助はごくりと飲み込む唾もなく、鳥肌を立てながら、
「幸吉はんには、どう伝えまひょ」
「取り敢えず、あいつにはこの事を伝えたうえで、仲間内が動揺せんようにまとめるよう専念させい。
こんな厳しい話は、どう隠そうがどっかから漏れてまう。腰の引ける奴が出てくるんは必定や。
しっかり手綱は締めて、足元を固めささなあかん」
「へえ!承知しました」
三郎衛門はこの内緒話から時を置かず、庄屋の跡取りや坊主仲間へ築留樋組会所に召集をかけた。
築留樋組会所とは大和川付け替えの際、分水地(新河川と旧河川の分かれ目)に造られた、河川の維持管理のための組合施設である。
河内各郡の惣代が、度々寄合などに利用していた。
事情通の若住職が、早速に情報をひけらかせる。
「その外山某殿は、そらなかなかにやっかいな石部金吉(堅くて生真面目すぎて、融通の利かない人)でな。一筋縄ではいかん御仁やと評判なんや」
すると、惣代跡取り仲間の1人が首をかしげ、
「そうは言うても人間やったら、何か一つでも弱みはあるもんやろ?
色事に弱いとか、無類の酒好きやとか、殊の外金に汚いとか、博奕の借金で頭回らん…ほれ、程度は違うても…なあ?」
「それ全部誰の事や、あんたの話と一緒にしなはんな。
ワテも、このお方は清廉潔白の猛者で評判やとしか耳に入ってきまへんで」
他の者も相槌を打っている。
やはり、三郎衛門も頭を抱えるほど、なかなか手強い人物のようだ。
少しでも隙があれば、そこを突破口に揺さぶりを掛けることもできるが…こう鉄壁の堅物の上、浮世離れしていては、付け入ることもできない。
そもそも、この場に集まっている跡取りうらなり連中の持つ道徳観・人生訓が世間とかけ離れ過ぎておかしいのである。
外山某がどこかおかしいわけではない。むしろごく普通の常識人だろう。
とは言え、脛に一つと言わずいくらか傷持つ連中にとって、想像もつかないわけで…良心のかけらももたず、当たり前のように仕掛けを講じるため、頭を悩ますのである。
こっちの方がよっぽど怪しい面々ではあるが、百戦錬磨のならず者共にかかれば、聖人君子の外山某は、ひとたまりもないのであって…南無阿弥陀仏と唱えるしかない。
ここで外山某殿のセリフ「強情張って強う訴え出ようものなら、藪の中を掃除したら蛇が出ることになるぞ。小百姓どもに突き上げられた末に動かされておるようでは、足元すくわれるぞ」は実際羽曳野市史か、松原市史かの記録文書の一説です。当時の人たちのリアルな言葉に惹かれて書きました。