第十四章 安永六年の訴願運動 その二
掘り起こされた資料が少なからず、今も残っている。
一七七三年(安永二年)四月、古市郡十五カ村口上書(口頭で訴える)
株仲間により自由に売買出来ず、上納銀(年貢米の代わりに払う銀貨)が賄えません。
これまでは百姓内で助け合って融通したり、綿や木綿の物納で賄うこともあるし、反物に仕立て稼ぐこともある。このままでは、それもかなわなくなります。
一七七四年(安永三年)八月願書
去年の四月より、株仲間以外から売買してはいけない、などと仰せつけられ難儀しています。
株仲間が差し出している冥加金年百五十両を、こちらが替わりに差し上げるので株仲間は廃止してほしい。
一七七七年(安永六年)十一月十三日、河内国若江郡二百余村訴願提出
私どもの村々では、畑が大部分で大半が木綿作りをしている所です。
ところが、近年木綿の値段が下がっていき、百姓どもは年貢上納銀(米の代わりに銀で納める事)が調達しにくく、とても難渋しております。
このような事になりましたのも、大坂表並びに平野郷・堺の三か所に綿延べ売買所が出来、正綿の売買が不景気になったせいです。
下値でも、繰綿一駄(綿の積み荷=単位)に付きおおよそ代銀四百五十匁ですが、繰綿会所なら一駄に付き二十匁から三十匁の銀の手付けで取り込み、一向に自由に売り捌くことが出来ません。
上納銀にも差しつかえ、きわめて嘆かわしい状況です。
右三か所の延べ売買会所を差し止め願います。
十一月二六日、河内の国渋川・大県・高安・河内・丹北郡村々口上書提出。
これは、会所が増え始めた最初の頃からはじまり、個々の村々の訴えの記録だろう。すんなりと奉行所には受け入れられず、再三再四訴えを繰り返したようだ。
一七七八年(安永七年)一月十三日
河内の国各郡村々と摂津の国住吉郡村々合同で、奉行所に繰綿延べ売買所差し止め要求の訴願提出。
一七七七年(安永六年)七月八日
古市村では、大阪奉行所に繰綿延べ売買所停止の出願を果たしたことが記録に残っている。
後に1007か村もの、一国レベルの訴えが有名になるが、それはまだ四十五年後の話である。
この頃は、ようやく会所廃止運動を本格的に展開しようとまとまって動き出し、訴願もそれぞれ地域別々に出している。
各村々も各々が属している地域の領民意識が強く、ごった煮のような状態だった。
奉行側も対応に苦慮したのだろう。
繰綿延べ売買所設立と廃止訴えの間の時間差が、二十年近く空いているのは何故か?
和泉の農民がなぜ大坂・平野の会所差し止めを願い出ているのか。堺の会所廃止を堺の奉行所に願い出るべきではないか、等々細かく百姓に問いただしている。
これは、対応しかねた堺奉行所がいったん百姓側に差し戻し、大阪奉行に責任転嫁を図って放り投げた経緯があった。
上にお伺いするので待てとか、書類不備や質問状を出すよう要求するなど、まるで時間稼ぎのような有様が垣間見える。
事実百姓側からは、早くから郡別の村々で廃止願いを出していたが、奉行所からはこれまで訴願を認められなかったと答えている。村によっては関連文書も残していた。
一連の記録から、百姓側は個々の小さい勢力では力にならないことを痛感し、奉行側は対処に苦慮して混乱している様子が伺える。
グローバル&ⅠT化など、新しい価値観や社会変革に惑う今のコロナ時代に似たものを感じる。
この頃、河内対大坂三郷だけでなく、大和など周辺地域から滋賀の近江、果ては新潟の越後まで地方を巻き込み、河内の綿市場が急速に全国へ拡大していく時期だった。
価格操作も物流も取引相手も複雑に多様化し、高度成長期の日本経済のように人々は翻弄される。
まさに近代化という、次の新しい社会体制の波が押し寄せつつある時だった。
それぞれがそれぞれの立場でどう動いていくのか。
訴えの始まりから葛藤する百姓たちの様子を見ると、刑事ドラマでも最後の解決場面より、主人公が推理しながら証拠を集めて悩む姿の方が面白いかもしれない。
勿論これでは、地縁血縁・資金力もある三郷綿問屋の結束に勝てるはずもない。
大和とは打って変わり、河内の百姓はこの先の長い戦いの中に身を投じていった。
もちろん、口に指をくわえて眺めている場合ではない。
三郎衛門達は、己の出来る最大限のことを模索していかねばならない。
施政者側も訴える百姓側も、悪戦苦闘して暗中模索する様子が見えます。時代の転換期とはこういうものなのでしょうね。前例がないのですから。
こうしてみると、歴史を学ぶ意義とはこういう側面もあることを、考えさせられます。
いつの時代もさほど変わらず、人は営み続ける。