第十四章 安永六年の訴願運動 その一
ついに大坂三郷の株仲間と河内の綿作百姓との争いが始まった…などという劇的な展開は、小説でもなければ起こらない。
そもそも、訴えに出るまでには、賛同する人集めに話し合い・承認・準備・根回しと申し合わせ等々。
長く回りくどく、時間のかかる準備期間が必要だ。
一連この騒動の発端は、大和の国今の奈良県から始まった。
綿を作っているのはこの河内地方だけではない。大和でも行われている。
むしろ古さで言えば、大和の方が発祥かもしれない。遥か古代の昔より、綿作りになじんでいた。
綿にも様々な種類があり、綿花の色にその特徴が表れている。
河内の綿花は黄色が主流と一章で述べたが、一方の大和綿花は赤い色が主流だった。
粘土質の土壌のため、綿作には不向きな土地柄で、この種しか合わなかったのかもしれない。
品質が、河内に比べてかなり落ちた。
むしろ大和では奈良晒が主流で、夏の麻織物としては全国の一級品とされている。
灰汁を使い白く漂白する加工技術は、大和独自の技法として高く評価されていた。
色よく染まり、汗もはじいて着心地に優れる。
一方の大和綿は、布団綿などの中入れ専用で、他国に売り出した。
河内木綿が取って代わるまでは、かなりの量を取引している。
実綿から種を取り出す繰綿の職人や、実綿そのものを仕入れる仲買が株仲間を作り、少なからず買い占めに走るものが現れる。
一七七三年(安永二年) 奈良・高田・田原本・今井等在方町の実綿仲買人と繰屋職人が、株仲間の立ち上げを南都奉行に求めた。
そこで、大和十三郡の綿作りの村々で、株仲間差し止めを求める訴願運動がおこる。
河内と大和で綿花の価格が逆転し、安値で買いたたかれるようになった、と言うのが理由だった。
事実両地域の間で、価格差が綿百斤(約八十二キロ)に付き三十から五十匁(銀貨の通貨単位)まで開いていた。
大和綿の株仲間による囲い込みで他地域の綿に取引が移り、河内綿の価格が高騰する現象が起こったのである。
人口増加と外国からの輸入の減少により、綿の需要が急速に上がっていった時代背景もあった。
一七七六年(安永五年)七月、大和十三郡の強力な訴訟運動により、これらの株仲間は撤廃される裁可が下りる。
すると、河内の村々にとって有利に取引できた綿市場が、反対に売り手側に不利となっていった。
安い大和綿が一気に市場に参入してくるからだ。
その上、繰綿延べ売買所の圧力にもさらされる。少しでも早く有利に綿を囲い込み、安値で手に入れたい会所と、大和の騒動前の高値を維持したい河内百姓との間に軋轢が生まれたのである。
国訴の始まりは、日本最古の国大和から始まります。
渡来人集団が綿の作り方や織り方を指導するのですから、当たり前ですが。
ただ、綿の質が河内より落ちるため、株仲間も小規模で大坂の商人にとり、あまり脅威とは感じなかったのでしょう。
ここはあっさり勝訴します。