第十二章 古市郡惣代三郎衛門の誕生 その二
頼み証文の効力を見せつける場面です。かつ、河内のおっさんたちの心意気も見られます。
三郎衛門もまるで予測していたように、泰然とかまえている。
「三郎衛門はん!これは一体どうゆうことかいのう。事と次第によっては、代官所に訴え出させてもらうど!
いやワシも機転きかんこっちゃ、総代はんやったのう。えらい若うて気付かんとすまんことやんけ」
三郎衛門若くとも、代々庄屋としてこの地を治めてきた家門なのだが…。それだけ皆の怒りも大きかったのだろう。
「なんや?小田原の評定衆の御一行かい。
口だけは達者やのう、口だけは。尻は櫓より重いけどな」
一部の者たちの顔色がさっと変わる。
横で書記として控えていた嘉助も青くなって、三郎衛門の袖を引き、
「三郎衛門はんも何喧嘩売ってまんのや。返って事態を悪して、どないしますんや?」
「ここで年は関係ないやろがい。空っぽの頭突き合わすばっかで、尻が床に張り付いた年寄などいらんと言うてるのや。
その働かんド頭冷やして、これ見てみい」
三郎衛門は連中の前に、ある書き付けを放り投げてみせる。
前列にいる万吉が取り上げ、声に出して読み上げた。
「な、なんと!三郎衛門はん!これは若江郡の頼み証文やないか。
ちゃんと印判もおしたあるホンマもんやんけ!
訴えの事もちゃあんとホレ、書かれとんがな。」
いささか棒読みのせりふ回しだが、弁慶が大きな振りで勧進帳を開くように、証文を皆の方へ開いて見せた。
「そや、お主らがうだうだしてる間に、周りの郡全て、はるか先を走っとるのや。
後れを取ってしもたら、この古市だけ延べ売買所の縛りから逃れられんと、一生買いたたかれるのやぞ!
そんなことで、ご先祖さまや孫・子まで顔向けでけるんか!」
さすがの鬼瓦!みなを睥睨して睨み付け、恫喝してみせる。
因みに、『全て』の一言は明らかに嘘だ。が、あっという間に抗議の連中の勢いがとまった。
書き付けを高く掲げて見せていた万吉は、
「これは…若江郡も並大抵の覚悟やあれへんのう。見事なまるで血書を見ているようやないけ!
ワイら一党も河内の男や!古市の意地見せんと、どないすんじゃ!
遅れ取って面目つぶしてしもては、お天道様の下堂々と歩けるかい!」
ここまで言われては男もすたるとばかりに万吉は、後ろの衆を見回し発破をかける。
周りの顔色をうかがうような真似をしては、河内の漢がすたる。
エイ・エイ・オー!皆一斉に立ち上がって、鬨の声を上げた。
これにて潮目は変わり、三郎衛門の惣代就任抗議という本来の目的は失われ、
古市郡も一気に繰綿延べ売買所廃止訴願へと突き進むこととなる。
(三郎衛門はん!上手くいったやんけ。これからはよろしゅう頼んどくよお。)
(万吉はん、お見事!ええ仕事してくれたがな。流石、幸吉の父親や。)
ふたりは、満足そうに眼で会話しながら、手を取り合った。
一方、何も聞かされていない嘉助は、この事態についていけず、茫然としながらも武者震いしている。
訴願までもう後一年と少し、秋の始まりの事である。
この後百姓にとって初めて、一国単位という大規模訴訟「国訴」が始まります。
とはいえ、ごく初期は国単位の大訴訟をしているという実感はありません。
これを繰り返し勝利経験を積み上げて、自信と誇りを持ったのでしょう。
まだまだひよっこの時代の話です。