第二章 河内木綿と織り場のこと その二
木綿の着物を着た江戸時代以前の、庶民(武士も含む)の衣服に触れています。
当時の人々の営みのなかで、「もったいない」精神が育まれた姿の一部をご紹介します。
第二章 河内木綿と織り場のこと その二
一方、国産の綿織物業が本格的に始まるのは、近世の豊臣・徳川政権ごろ、早くても戦国時代からが定説となっている。
では、それまでの日本人は、何を着ていたのか?
上流階級は、当たり前に輸入した生糸や織物に頼ったり、貢租(税)として納められた調(布や特産物―絹・紙・漆・工芸品等)に当たる絁などを使った。
今の貨幣と同じと思えばいい。
今も現存する献上品を見ると、その出来映えがあまりに素晴らしい。
本当に国産生絹かどうか調べてみたが、わからなかったそうだ。
優れた職人が育っていたのだろう。
かたや大多数の庶民はなにを着ていたかといえば、当たり前に自分で一から作った。
あるのは、自然の中に生えている植物と獣の皮だけだ。
縄文、弥生時代から変わらず、完全自給自足だ。
主に、葛や大麻・亜麻・苧麻などから繊維を取りだし、麻を織った。
苧麻と書いてカラムシと読むそうだが、イラクサの一種である。
イラクサと聞いて、真っ先に思い出されるのは、アンデルセン童話の『白鳥の王子』だった。
継母の魔女に呪われて、十一人の兄王子達が、白鳥にされてしまう。
一人残された妹姫は兄たちを助けたいと願い、良い魔女からその方法を教えてもらう。
何があろうと一言も口を利くことなく、ひたすらイラクサの枝から糸を作りだし、帷子(裏を付けない衣服・単衣)を編むこと。
途中の細かいあらすじはすっ飛ばすが、何もしゃべらず怪しい行動をする妹姫は魔女と疑われ、とうとう処刑されることになる。
処刑直前に、一枚だけ片袖を残して十一枚の帷子が完成し、兄たちの呪いが解けるというお話。
この話を読んだとき、とげのあるイラクサを触るなんてぞっとしないと思ったものだ。 だがこうしてみると、おとぎ話は、一概に現実離れした空想の世界とは言えないのかもしれない。
きちんと、時代考証?されてる。
ちなみに、カラムシにとげはない。
今でも日本では、カラムシの着物が作られている地域がある。
有名な布に、宮古上布や越後上布がある。
カラムシから糸を取り出し、麻を織る体験学習が、今もあちこちで行われている。
ちなみにこの着物のお値段だが、今や何十万から百万以上はする高級着物となっている。
『布』という漢字も、元の意味は今と違っていた。
複雑な工程(皮をはぐ、煮る、水に晒す、乾かして梳く、自然の染料で染める…)を幾度か繰り返し、手間暇かけて織り上げた物、これを『布』と言った。
時間も労力も大変なので、たくさんは作れない。
関ヶ原の戦いの頃、石田三成方として城に立て籠った経験を綴った、おあんという少女の体験記が今に残っている。
この中に、自身の衣服について記述したところがあった。
300石取りの武士の娘であっても、十三から十七までは、着るものは帷子(麻の裏無し単衣)一枚きりだった。
中には、一生に一枚の着た切り雀もいたという。
よって、衣服はたいへん大事に着まわされた。
穴が開けば継ぎをする。子供が生まれば、昔の着物をほどいて、産着もおしめも作る。布がボロボロになれば、細かく裂いて、糸のようにつないでまた織った。
これを裂き織りと言って、今も伝統工芸として残っている。
それこそ跡形もなく無くなってしまうまで、大事に何代も使いまわした。
こうして今の着物の形は、直線立ちで作るようになったのかもしれない。
ほどきやすく、仕立て直しやすい。
サイズも西洋の服に比べれば大まかで、型紙がいらないので、細かい体形差に左右されにくい。
当時の日本人にとって、とても合理的なデザインだったのだろう。
着物の着付けが難しいだの、なぜボタンやファスナーを考え付かなかっただの、せめてひもでくくって、簡単に着れたらいいのにだの、文句垂れている日本人のなんと多いことか!
物を大切にした祖先の知恵を敬って、ありがたく合掌!
日本各地を旅行すると、布に興味があると、思わぬ機会に巡り合います。
カラムシを使った麻織の会や、裂き織をする織人さんに見かけると、思わぬ出会いに驚喜してしまいます。
実際の作品は、とても高額で手が出るのは、コースターぐらいですが。
何かに興味を持つと、自分の視野も変わり、旅の楽しみも増えそうです。