第十章 ハッタリ その二
大坂の相給村の話です。相給村とは支配者が、複雑に入り組んで重なった村のことです。
その為、百姓も商人も早くから政治や法律に詳しく、自治が発達していきます。
そもそもこの惣代とは、なにか?
そこにはこの河内を含む大坂の、特殊な支配体制が深く関係している。
江戸時代は、日本の国土を各藩の領地に分割して領主が治める、封建制である。
その中で、一番大きな領土を治めているのが、徳川幕府だった。
極端に言えば、徳川家とは征夷大将軍という地位を賜った、およそ四百万石とも言われる最大領土を治める一領主に過ぎない。
但し、次に大きい加賀前田の百二万石と比べても、如何に巨大な権力であったかは明らかだ。
しつこいようだが、このように全国を直接統治しているわけではない。
あくまでも、突出して広大な領土の支配者=将軍による間接統治なのである。
とは言え全国には、氾濫を繰り返す川の付け替えや、江戸城の補修、港の整備、地震・噴火などの災害…等々。
次から次へ待ったなしの社会インフラ事業に、外交・警察・軍事・鉱山の開発と貨幣管理、裁判等々やることは今の政府と変わらない。
違うところは、金がない。何故なら一領主に過ぎないから。
よって、これらをほかの大名たちに丸投げせざる得ない。
これが大和川付け替え工事も含む、お手伝い普請というわけだ。
大坂は、元が豊臣家直轄の土地柄もあり、いささか特殊な地域だった。
まず、この地域で直接支配する大名は、だんじりで有名な岸和田藩などわずか七藩程しかない。
大部分は幕府の直轄地として大名や旗本が、所司代や郡代・代官・遠国奉行に任命されて治める、天領(正確には御料)である。
あるいは大名に支配をゆだねる形で恩賞とした預け地、旗本の知行地、宮家・寺社の所領が、まこと複雑に入り組んでいた。
しかも、一つの村に一人の領主が治める方がまれだった。
報償とばかりに、村を切りとって下げ渡しては、次々と領主が入れ替わる。
一つの村に二人三人と支配者が重なることも多い。
これを入り組み支配といい、こういった村を相給(あいきゅう)村といった。
領主の名を、覚える間もなく次から次へと変わる。役人も年貢徴収しか関心がない。
必然的に、村を治めるのは、村役人に一任された。
領主への忠誠もへったくれもない。実際はもう少し忠誠心を示していたが……
自然と、自主独立の気風が育つ地域となった。
訴訟を起こすには村同士のまとまりに欠けるが、支配側からの干渉も受けにくい。
大きなことを起こすには、惣代の権力が大きい方が遣り様によってはうまくいく。
が、庄屋の専制を嫌って反発も生まれ、匙加減が難しい地域なのである。
惣代就任に向けて、念入りな準備が必要になるのは当たり前のこと。三人は気が狂いそうなくらい、入念に打ち合わせを行った。
「あーもうええ!こうなったら、当たって砕けろやんけ」
真っ先に、堪らえ性のない幸吉が音を上げた。
「そうやな。グダグダ言うても、堂々巡りや。後は野となれ大和路やな」
いい加減飽きてきた三郎兵衛も打っちゃってくる。
「ほんまにええんだっか?もっかい話のすり合わせを…」
何事も気の細かい嘉助が諌める間もなく、三郎兵衛が遮る。
「もうええ、あんまり入れ込むと、返って思うようには動けんもんや。
何かあっても臨機応変に、頼むで!」
「「ヘイ!」賽は投げられた。
後書き
大坂の支配体制のお話です。かなり特殊でややこしいのですが、反対に自主独立の精神が発達し、政治力が百姓にも育ちました。
中央の江戸に負けない反骨精神も、経済面で養われていきます。
事実、大正時代まで大阪は文化・経済の中心で最大都市であり続けます。