第九章 始動 その一
何やら陰謀めいた策略が見えます。が、やむ負えない事情が垣間見える様子が描かれます。
この後三郎の指示のもと、嘉助・幸吉それぞれの役割を果たすべく、生涯で一番忙しい日々が始まる。
嘉助は、特に重要な任務を仰せつかっている。
かかった経費の収支や清算、訴訟を含めた一連の運動の細かい記録である。
ある意味あきんどの嘉助に、うってつけの役目である。
が、これがとてつもなく厄介きわまりない仕事であった。
当たり前だが、この時代の交通手段として車も電車もない。あるのは基本自分の足だけだ。
馬も籠もあるじゃないかと思われそうだが、何事もタダはない。
絵柄上仕方ないが、そもそも時代劇は籠や馬を使いすぎなのだ。
駕籠かきは、二人いないとできないのだから、割高で一里四キロで四百文、今の一万円近くした。とても安易に利用出来るものではない。
馬はもっと高い。
因みに、農家の五軒に一軒は馬を所有しており、屋内に囲って飼っていた。
一頭平均三両、とても屋外では盗まれるのが怖くて、置いておけなかっただろう。
囲炉裏の火でアブ除けしながら、家族の一員のように厚く世話をした。
比較しにくいが、現代人が借金して新車を購入し、宝物のように大切に磨きたおして保管、運転するようなものだ。
人間に大切にされていたことが伺えるのは、敬称で呼ばれるお蚕様と『人馬一体』という熟語もあるお馬様ぐらいだろう。
木曽馬や対馬馬など蒙古系で小さいが、サラブレッドとは違い、気は優しくて力持ち。
農耕だけでなく、街道の足として借し出すなど、良い小遣い稼ぎになった。
移動手段は、少なくとも灯りや荷物持ちの従者を含めた二人で、ひたすら歩くのみだ。
各郡や私領村々の惣代達との会合で大坂に赴こうとも、古市村から今の大阪市住吉区にある定宿までの道のりは約二十キロ。
そうそう気軽に往復できるものではない。当時の健脚で一日三~四十キロ、半日かかる計算になる。
となると、最低一泊はすることになる。
上等の宿代で一泊三百文、五千円から六千円ぐらいだ。食事は大抵込みで、レストランなどそこら辺りにはない。
体力勝負だからしっかり食事をとり、水分も補給しなければならない。
草鞋の替えの値段も考慮する必要がある。これが全て従者含めて二人分。手土産ももちろん必要だ。
考えるときりがないほどの経費が掛かる。
ただ膝突き合わせて会議をする現代とは違い、必ず日本お得意の接待がついてくる。
物事を円滑に進めるには、とても重要な習慣?伝統?だった。
今では、気軽に接待もやりにくくなった。下手をすると、罪に問われかねない悪習慣のように非難される。
が、この時代では当たり前の慣習なれば、徒やおろそかにはできない。
遊び人の三郎と評判だったが、存外苦労人だったのかもしれない。
商売の収支とは違い、根回し・付け届け・接待など嘉助にとって気が狂いそうな金勘定だった。
どうやら、表の勘定とは別に、裏勘定が必要なようだ。
帳面を二つ手渡すと、三郎はニヤリとしながら、
「お前もようやく分かってきたようやな。この調子でやっていけ」と、悪い顔でのたまう。
あきんどの矜持からは、とても容認できない裏帳簿に、嘉助のストレスは上がる一方だ。
後で、お紺ちゃんに慰めてもらおう。
最近、念願の祝言を挙げ、愛しい新妻を思い浮かべて気力を養う嘉助だった。
一方の幸吉は、若者たちを抑えるのに、苦慮していた。
きっかけは三郎の代替わりだ。
勿体ぶりますが、この先はここまでです。少し長くなるので、ここでいったん切らせていただきました。
次回は、フィクションならではの奇襲作戦が実行されます。