第二章 河内木綿と織り場のこと その一
本文より少し外れ、河内木綿の背景に移ります。
なぜ河内を中心に木綿が盛んに作られたのか?
そのころの日本や、かかわりのある周りの国の情勢を説明しています。
第二章 河内木綿と織場のこと
2014年、富岡製糸場が世界遺産に登録された。
今や日本の着物文化も、無形文化遺産の登録を目指すとか…。それ故、日本では華やかで多様な織物文化が、古くから発達していたと思っている人も少なくないだろう。
かく言う私も長らくそう信じ込んでいた。
ところが、純国産による絹織物や綿織物産業の歴史はそれほど古くない。
むしろ、日本の衣服の歴史的には、新しいと言っていいのではないだろうか。
もちろん絹と綿を同列には語れない。
ここは綿の話なので、ひとまず絹はよそに置いておいて…とはいえ、絹も気になるのは仕方ない。少し触れておこう。
古代から日本には、中国から伝わった養蚕はあった。
生絹(すずし、きぎぬ)という精錬されていない絹糸で織られた真綿や紬などが中心で、あくまで各農家ごとの家内労働と、考えてよさそうだ。
西陣で織りあげる、綸子や綾のような高級織物は、輸入生糸を使った。
長らく国産は繭を煮ながら巻き取る手挽きの方法しかなかった。
明治の写真に残っている足踏み式の座繰り機は江戸後期からで、それまで生糸は、家内職にたよっていた。
おもしろい話がある。
『絹と木綿の江戸時代事典』(山脇悌二郎著)によると、元禄のころ主に日本に生糸を売っていたのは台湾だった。
そこで得た資金を元手に清の支配に抵抗したのが、台湾の英雄 鄭成功である。
彼は、中国人貿易商と日本女性の混血として生まれたことで有名だ。
歌舞伎でもこれを主題にした『国姓爺合戦』が、度々演じられている。
長崎の平戸生まれ、日本名は田川福松。
わざわざこう書くのは、この頃は中国の明代の末期に当たり、倭寇全盛期。
海上までは取り締まりも及ばなかったのだろう。
父親の鄭芝龍も大きな船主で貿易商、という名の海賊であった。
武装化しなければ襲われるだけだ。海上の仁義なき戦いというところだろう。
但し彼は官吏でもあり、六か国語を話す教養人だったようだ。
平戸藩士の娘、田川マツとは正式に結婚し、鄭成功が生まれた。
鄭一族は中国・福建省の豪族で、福松はそこで教育を受けて難しい試験も合格し、役人になっている。
明滅亡後、 明の復興を願いよく頑張って清に抵抗したが、ついに倒されてしまった。
面白いことに、弟の田川七左衛門は日本人として平戸に残り、商売を繁盛させて兄を援助している。
台湾の南方を旅行すると、彼を祭る寺院に案内される。
孫文・蒋介石と並ぶ「三大国神」として、現地ではかなり尊敬されており、かれを熱く語られた。
あまり知らなくて、申し訳ない思いだったのを、覚えている。
その年の1683年より、日本へ入ってくる舶来生糸は一気に減少していく。
皮肉にも彼の滅亡とともに、幕府による養蚕奨励のお触れが回り、本格的な国産養蚕業が始まるのである。
少し退屈な話が続くかもしれませんが、台湾に旅行する時、きっと役に立つと思います。
次回は日本の着物と布文化に触れていきます。
私たち日本人がどうして、このような生活を送っていたのか?のヒントになるかもしれません。