第七章 大和川付け替えと新田 その二
当時の貨幣事情を説明します。人の営みや経済事情は、驚くほど今の状況と似通っています。
時代に関係なく、人は景気や物価、天災や天候不順に悩まされ、官僚たちが四苦八苦して
国政を工夫する姿を見ることができます。
次いで、財政のプロフェッショナルとして 、貨幣改鋳に踏み切る。
家康の時代には豊臣から奪った財宝が、潤沢にあった。
ところが綱吉のころには、徳川幕府の財源は、底をついている。
綱吉の贅沢好きのせいとよく言われているが、綱吉は勉学好きで、それほどひどい将軍ではないようだ。
むしろ、戦争のない平和で急激に増加した人口や大きくなった都市の発展に、対応しきれなくなったが正解だろう。
この財源不足問題を解決したのが、管理通貨制度に通じる勘定方重秀の政策だった。
管理通貨制度とは、国家の信用に裏付けされた貨幣を発行し管理する制度の事である。
例えば私たちが使っているお札は、謂わばただの紙切れだ。非常に高価な品質の紙切れだが……じゃ、何故物が買えるのか?
日本政府が保証しているからだが、これを信用通貨という。
簡単に言えば、日本国の信用で、紙切れを使って外国製品や国内製品を買って生活している。
この紙切れが、日本銀行が発行する銀行券となる。
発行量で円高円安の調整もしているので、分かりやすいとおもう。
二十世紀初めのケインズ経済学の理論だそうだ。
昔の教科書に、重秀は貨幣価値を下げその浮いた金で、私腹を肥やした悪官吏とされているものもある。
今では、世界的にもいち早く管理通貨制を理解した先駆者として、評価されるようになっている。
重秀によると、「通貨は国家が作るものだから、瓦礫でも通貨にしようと思えばできるだろう。この銭は品質は悪いが、紙幣よりましだ。」と言ったそうだ。 (「通貨の日本史」より抜粋)
日本は確かに一時期、経済理論の先進国だったということになる。
余談だが、現在の東大寺大仏殿の再建を主導したのも重秀だった。
但し予算が足りず、重秀も大仏が入りゃいいんじゃねと、今の大仏の大きさキチキチサイズの大仏殿になってしまった。
いや、元の大仏殿の大きさはどれだけ大きかったの?これで十分だろう!突っ込みたくなった。
何事も物事はスムーズには進まない。出る杭は打たれる。
活躍する主人公の前に、障害が立ちはだかるのは定石。
彼の前に一人の朱子学者、新井白石が、立ちふさがることになる。
貨幣の価値を下げてはならないという家康の遺言を逆手にとって、徹底的に重秀をこき下ろし失脚させた。
金にこだわるのは、卑しいもののすることである。
この儒教の考えにとらわれた学者上がりの政治家は、近代経済を理解しなかった。
こうして、明治維新まで、日本の金融政策は停滞することとなる…という事もなく。
日本の貨幣制度は計らずも、近代通貨制度へと移っていく事となる。
重秀の貨幣改鋳政策は、事実うまく進まなかった。
資金力のある大商人が、金の含有量が多い旧金貨を手放すはずがない。
彼らは手持ちの金貨を、新貨幣と交換しようとはせずにため込んだ。
金の含有量の低い新貨幣の流通は遅々として進まず、代わって各藩が保証する藩札が急速に広まっていく。
こうして経済という面で、この国は意図せず、信用通貨制度に移行…ソフトランデイングしていた。
そりゃあ、明治に入って、円のお札の流通がスムーズにいくわけである。
西洋諸国より、信用貨幣のお札に慣れているかもしれない。(諸説あります。)
ケインズ経済学!経済の毛の字も知らない私が経済を語っています。
お耳汚しでスミマセン。
ここにあげた「勘定奉行荻原重秀の生涯」(村井淳志著)や「通貨の日本史」(高木久史著)から、いろいろ学ばせていただきました。
そこで感動するのは、日本の官僚の優秀さ!です。実は新井白石もお札の重要性には、気づいていたそうです。
暫く重秀にお付き合い願います。