第七章 大和川付け替えと新田 その一
依然述べた荻原重秀が登場します。彼の未来を見据える慧眼、実行力など紹介しています。
大和川の付け替えは、このお話の要ともなる事業です。
ここでは、世界かんがい遺産にも登録されたこの大事業の話を展開していきます。
元より、現在とこの時代の大坂では地形が大きく違っている。
西を生駒・葛城・金剛に連なる山並みが連なり、大阪城から南に上町台地が通る。
古代までさかのぼれば、そこより海側は沖積地という、主に三角州や湿地帯や湖だ。
難波は浪花とも浪速とも呼ばれ、波が荒いことを示した。
現代のような大阪湾はない。
以前は、今のように大阪市を横切る北の淀川と南の大和川が大阪市中を挟み、西から東へ並行に流れてはいない。
大和川は大阪市内を南から北に縦断して淀川に注ぎ、一つになって海に流れ込む。
川は肥沃な土壌を運ぶ代わりに、土砂が川底に溜まり天井川になっていく。
こうして大坂の歴史は、常に川が氾濫して引き起こす洪水とともにあった。
古代から治水事業は、国を治める上で最も重要な事業で、かかわってきた者に和気清麻呂の名もある。
中でも豊臣秀吉は、大坂の町づくりに最も力を注いだ権力者だった。
大規模な埋め立てと治水により、物流に優れた巨大商都を作り上げた。
今の大坂を築き上げたのは、この秀吉といっても過言ではないだろう。
江戸時代に入ってからは、河村瑞賢が安治川を改修し、大和川の拡張工事にも、たずさわっている。が、治水事業に終わりはない。
1704年(宝永元年) 幕府は、兼ねてより強く訴えのあった大和川付け替え工事に着手する。
長年嘆願運動を繰り広げた人物の中で、中甚兵衛と言う河内の百姓の尽力のおかげだ
と、教科書には載っている。おそらくそれも真実だろう。
但し、一百姓の嘆願で動くほど、川の付け替え事業は生易しい事業ではなかろう。
事実、川の付け替えは、非常に多くの難題を抱えることになる。
付け替える先の土地にある村は、ダム工事と同じように新しい川筋の水の下に消えてしまう。
先祖代々の土地を失ってしまうだけでない。
代替地があてがわれても、旧の村人たちは離散してしまい、昔の生活を取り戻せる者は、極めて少ない。
一方で、以前の川筋の住民は、川の水自体を失ってしまうことになる。
水不足になり、米は獲れにくなるだろう。勿論、代わりの水源としての用水路は引かれた。
但し、小さな用水路では水量が十分ではないうえ、埋め立て地には、新田が新たに開発される。
そこへ多くの住民が移住し、田畑を作り新しい村が出来上がる。
必然的に深刻な水不足が起こった。
川奉行も置かれ、水の使用を厳しく管理するようになる。
決して、安易に進められる事業ではないのだ。莫大な費用も含めて…。
反対も賛成も同じくらい強固に起こったという。反対の村の訴願書の中には、自死したり気の狂う者も出たと、訴えている。
そのたびに、お上は振り子のように付け替えに傾いたり、取り止めたりを繰り返した。
ここでこの問題を、一気に片を付ける強力な指導者が現れる。
堤奉行・万年長十郎と勘定奉行・荻原重秀である。
歴史好きな人なら、良く知られた名前だろう。
貨幣改鋳で、幕府の財政改革に大ナタを振るった人物である。
先祖は元々甲斐の武田の出身で、治水・土木といった国土保全に長けていたようだ。
『勘定奉行荻原重秀の生涯』(村井淳志著)という本によると、太閤検地以来八十年ぶりに、畿内の検地が実施されている。重秀は若くしてそのメンバーに選ばれたのを皮切りに、様々な事業にたずさわり、活躍した。
例を挙げると、前に触れた遠町深鋪に陥って湧き水に悩まされ、発掘量が激減した佐渡金山の奉行に就任し、大規模な排水溝を作らせ、、佐渡金山を復活させている。
この章の大和川付替えを調べるうちに、荻原重秀に出会いほれ込みました。
スーパー幕臣といっていいと思います。
未だに評価は分かれていますが、彼の行った仕事は無くなりません。
江戸時代の優秀な勘定方に、頭が下がる思いです。
大阪周辺に住んでおられる人は、地名など新田には何かしら関わってこられた人も多
いでしょう。もう一度地域を見直されては?